西尾市岩瀬文庫の特別展「三河大浜騒動150年」は7月2日から後期の展示が始まった(8月31日で終了)。大浜騒動は鷲塚(わしづか)騒動、菊間藩事件とも言われ、三河の浄土真宗門徒と神道国教化政策を推進する菊間藩大浜出張所との話し合いが決裂、今の碧南市鷲塚町にあった庄屋片山邸が襲撃された。片山邸の周辺は4寺院が並ぶ寺町で、特に休憩拠点となった真宗大谷派の池端蓮成寺とその周辺には数千人の門徒が結集したという。また、もう跡形がなくなった片山邸のすぐ近くには、逃げ遅れた役人藤岡薫の殺害された場所もある。
鷲塚町は油ヶ淵南の矢作川に接する地域で、かつては荷物を陸揚げしたり船積みする鷲塚湊(みなと)があり、片山家は江戸時代から明治の初めまで廻船問屋として活躍したという。碧南市文化財課では「1790年の片山家河岸蔵屋敷絵図には、3棟の蔵屋敷が確認できます。年貢米は片山家の蔵屋敷に一旦収められ、その後、鷲塚湊で大型廻船に移されると、次は太平洋航路で江戸へ運ばれていきました」と指摘。今は片山家の蔵屋敷跡はなくなっているが、三河大浜騒動の図録によると、浄土真宗本願寺派寺院で三河一向一揆で焼失したこともある願隋寺の南側一帯、東町町内会館周辺という。
片山家の屋敷跡には町内会館などが建つ |
池端蓮成寺の本堂(一番上の写真は入り口) |
県道を挟んで片山邸跡の南の鷲林町には、池端蓮成寺、遍照院、川端蓮成寺の3寺がある。このうち大浜騒動で僧侶や門徒の集合寺院となったのが池端蓮成寺。狭い屈折路に周囲を囲まれた砦のような雰囲気もあるが、応仁時代に本宗寺として創建し、三河一向一揆の時に徳川方と戦って破壊されたという。その後道場として再建、1690年に本山から認可を得て真宗大谷派の蓮成寺と称するようになった(へきなん観光ナビ参照)。境内の入り口近くに手水屋形があるが、殺された藤岡薫の首がここで洗われたと伝えられている。1848年建立の本堂は老朽化が進んだことから、2014年に再建された。
片山邸のあった場所から北西に県道を1分ほど歩くと、床屋のサインポール横に小さな地蔵尊があるが、三河大浜騒動の図録によるとここが「藤岡地蔵」という。かつて役人藤岡薫の殺害地にあったものが同地に移動されたという。しかし、県道をさらに北西に2、3分行くと図録の写真通りの藤岡薫殺害推定地があった。なぜかここにも地蔵尊が設置されているが、藤岡地蔵は移設されたのであり、残っているのはどういう地蔵尊なのかちょっと分からない。
役人藤岡薫殺害現場推定地 |
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