2022年5月29日日曜日

メールアドレスのない安城市会議員

  安城市会議員にメールを送付、「安城市の不思議」ブログを読んでもらおうかとふと思った。そこで、安城市議会「やるじゃんANJO!」のホームページを開いてみた。令和元年から5年4月末日まで任期のある市会議員28人の一覧表が掲載され、住所、電話番号、略歴などが顔写真入りで紹介されているが、Eメールアドレスを載せていない議員が13人もいた。何と全体の46%と半数近くの議員がアドレスを公開していない。まさか歳費をきちんともらっている議員がパソコンを使っていないわけはないはず。単に見知らぬ住民などからメールが届くのを嫌って、アドレスを公開していないのかと思う。しかし、市民の意見を広く聞くのが議員の職務と言えるのに、半数近くがEメールアドレスを公開していないという安城市議会の現実に愕然とする。

 Eメールアドレスを公開していない議員は、和泉町・沓名喜代治(無所属・安城創生会)、東端町・松本佳栄(無所属・安城創生会)、二本木新町・石川博英(無所属・安城創生会)、今本町・森口晶治(無所属・みらいの風)、和泉町・法福洋子(公明党・公明党安城市議団)、高棚町・石川博雄(無所属・安城創生会)、里町・杉山朗(無所属・安城創生会)、小川町・辻山秀文(無所属・みらいの風)、新田町・今原康徳(公明党・公明党安城市議団)、池浦町・松尾学樹(無所属・安城創生会)、桜井町・二村守(無所属・安城創生会)、小川町・大屋明仁(無所属・安城創生会)、東栄町・野場慶徳(無所属・安城創生会)の各氏。会派でみると、安城創生会が9人、みらいの風が2人、公明党安城市議団が2人。安城創生会所属議員が最も多いが、もともと全体の議員数が18人と多いため。

 ちなみに、公式サイトを持っている議員は8人、Facebookを持っている議員は6人、Twitterをやっている議員は3人。EメールアドレスやSNS関連のアドレスを全く持っていない議員も9人おり、日ごろの政務活動をどうやって行っているのか疑問を感じてしまう。もちろん、印刷した活動報告紙を配布している議員もいるかもしれないが、経費の点からも頻繁には発刊できないのではないだろうか。安城市議会の会議録などもインターネットで手軽に閲覧できるようになっているが、安城市会議員一人ひとりのデジタル化はかなり遅れていると言える。まず「安城市の不思議」ブログの告知メールを受け取れるよう、環境を整えてもらいたい

    https://anjo-shigikai.jp

2022年5月28日土曜日

二本木八幡社

 

 日本で一番多いと言われる八幡信仰に関わる神社は安城市内にも数社あるが、そのうち最も歴史の新しいのが二本木八幡社。周りは大通り裏の住宅地で、鳥居付近には由緒を記した石板などもなく、どことなく新しい町の新しい神社といった雰囲気が漂っている。創建されたのは昭和29年9月で、刈谷市の野田八幡宮と岡崎市の伊賀八幡宮の分霊を合祀し、新たに社殿も造営したという。祭神は應神天皇、神功皇后、仲哀天皇、鐸和気尊、比咩大神、天照国照日子火明命(二本木連合町内会ホームページ)。

 市教育委員会のリーフレット「安城歴史の散歩道」では、明治の初め、同地に茶園を開いた家が家業の守り神として秋葉社、稲荷社、山上社を祀ったのが始まりで、その後、明治用水が完成して開拓者が増え、村の人々の守り神となっていったと記している。昭和29年の本殿創建のあと、「狛犬、拝殿、灯籠などが建てられ、神社としての姿が完成しました」。碧海郡依佐見村にあった二本木町は安城市に編入合併後、JR東刈谷駅、新幹線三河安城駅ができ、名古屋のベッドタウンとして大きく発展、美園町、緑町、二本木新町、三河安城町、三河安城本町が次々と分町された。このため、大字二本木の住居表示だった八幡社は緑町1丁目となっている。
  
 二本木連合町内会のホームページによると、二本木八幡社の敷地は645.5坪。拝殿の横には社務所があり、その反対側に神楽殿、その奥に境内末社が祀られている。同ホームページに記載されている末社は稲荷社、秋葉社、山上社で、一つの社殿しかないが、これは3社が合祀されているためという。このほか、境内には伊吹山麓から持ってきたという巨大なさざれ石が祀られている。氏子数は平成11年で1千500戸、同26年で3千戸と記されている。15年で倍増したことになるが、それだけ地域の人口が増大したとも言える。都市化が進んでいる地域だけに旧弊なしきたりに囚われている南部地帯と違って、二本木連合町内会では八幡社の運営の基盤としている神社費は町内会費とは別に徴収しており、全員一律の強制ではなく町内会員の判断に委ねた任意の徴収としている。年1回の賦課金は持ち家者1000円、借家者500円。

シンプルな外観の拝殿
奥には住宅地が広がる社務所
境内末
さざれ石







2022年5月25日水曜日

大池

 

 大雨の時の雨水を貯める調整池として活用され、隣には公園も設けられている安城市大東町の大池。平日でも釣りを楽しむ人も見えるが、もともとは紡績会社の工場が進出した時、敷地を埋め立てるための土を掘り取った場所という(市教育委員会「安城歴史の散歩道」のパンフレット)。面積は約1.5ヘクタールで、雨水を貯められる量は約2万6700立方平方メートル。

 紡績会社は「内外綿株式会社」(戦中に軍需工場へ転換し、昭和26年に倉敷紡績が工場設置)。安城歴史の散歩道によると大池は昭和6年に明治用水管理組合が購入し、干天時に備えた貯水地として利用、平成18年に防災上の必要性から洪水時の貯水地として整備され、大池公園として人々の憩いの場となっているという。明治用水管理組合はその後いろんな変遷を経て、明治用水会館に事務所を構える明治用水土地改良区となっており、現在も大池を所有している(公園の方は安城市に委託管理)。

 一周が約600メートルという大池のほとりには88の仏像が並んでいるが、これは徳島、高知、愛媛、香川の各県にある88カ所の霊場を大池を回るだけで巡拝できるようにしたもの。大池のほとりに昭和16年に建てられた曹洞宗大平寺が設置したもの。この寺には等身大の修行時代の弘法大師像、4間半4面方形づくりの弘法堂が設置されているが、それ以上に目立つのは高さ7.2メートルの石づくりのねがい観音。さらに境内には、愛知県養鶏組合連合会安城市部が昭和17年に建立した鶏霊塔と、御幸本町から移設された鶏霊塔も隣に建っている。

 大池公園のすぐ隣には明治用水会館と水のかんきょう学習館が設置されている。特に2階建ての水のかんきょう学習館は公園と繋がったようなつくりで、主に子どもたちを対象に明治用水の開発目的、歴史などが分かりやすく展示されている。

大池のほとりには広い公園

大池を一周すると霊場88カ所巡りができる

大仏のある大平寺
大平寺には鶏霊塔も



2022年5月22日日曜日

明治用水・工業用水

 矢作川から農工業用水を取水する堰「明治用水頭首工(とうしゅこう)」で、川底に穴が開いて大規模な漏水が発生、5月17日午後に明治用水から水が取水できなくなった。このうち、工業用水については19日午後7時から段階的に各事業所の受水を再開した。東海農政局が応急対策として仮説ポンプを設置したことから、工業用水は通常の3割ほどで供給できるようになったが、農業用水は21日まで供給が止まったままとなった(幹線水路に充水を続け、22日午前に一部で水が出る状態になったと発表)。なぜ工業用水の回復が早くできるのかと疑問を感じたが、愛知県企業庁水道部の発表した報道資料で、工業用水は安城市の工水分水工で農業用水と分離されて安城浄水場に送られて浄水処理、そこから農業用の水路とは異なるコンクリート水路で各事業所に供給していることが分かった(上図も報道資料から転用)。

 安城浄水場は安城市福釜町の田園地帯にあり、昭和50年5月から給水を開始し、現在、1日あたり約14万3千立方メートルの給水を行っている。給水地域は岡崎市の一部、半田市、碧南市、刈谷市、豊田市の一部、安城市、西尾市の一部、高浜市、みよし市、東浦町、武豊町、幸田市の9市3町で、自動車関連企業を中心に131事業所が利用している。トヨタ自動車の本社工場はもちろん、各種報道ではデンソー、豊田自動織機、愛知製鋼、さらにJERAの碧南火力発電所、大阪ガスグループの石炭火力発電所なども水の供給を受けている。

 明治13年に完成した明治用水によって、大正末期から昭和初期にかけて安城を中心とした碧海郡は「日本デンマーク」と呼ばれるほどの農業地帯へ発展した。しかし、昭和30年ごろから始まった高度成長期には自動車関連企業の大々的な進出などもあって、同用水を管理する明治用水土地改良区によると受益面積が著しく減少、現在はピーク時の半分となったという。こういった背景から、愛知県が昭和50年から明治用水を利用した西三河工業用水道事業を開始、工業用水としても活用されるようになった。今回の漏水事故によって、農家にとって本来は農業用という意識が強いが、明治用水が農業用よりも工業用としての比重が高まっていることが図らずも露わになった。しかも、中核を担うのは安城市の田園地帯にある安城浄水場である。

一般人は立ち入り禁止の安城浄水場(下の写真も)

明治用水土地改良区の事務所が入る安城市の明治用水会館

喜平公園にある水路図

2022年5月20日金曜日

和泉八劔神社

 

 北本郷古墳のあった弥厚公園の隣に位置する和泉八劔神社は、榎前八劔神社と同様に日本武尊を祭神とする旧指定村社。公園にある半場川散策路マップの看板によると、同神社は伝承では応仁年間(1467-69)の創建とされ、かつて現在地の北にあったが、江戸時代の正徳年間(1711-16)に遷座し、社殿を造営したという。また、明治時代の神社整理政策によって、境内には社口(しゃぐち)社、稲荷社、山神(やまのんみ)社、御鍬(おくわ)社、田扇(たおうぎ)社、秋葉社が合祀された。
 
 神社の入り口には由来を記した石板が置いてあるが、散策マップの説明文とは社殿の建立時期などが異なる。このためか、「史実と伝承により述べましたが、明治村史と違いもあります」と注意書きもある。明治以降の由来記としては、明治23年に拝殿の新築があり、古い拝殿は神楽殿に改築したが、昭和20年の三河大地震によって倒壊、昭和53年に社殿を造営したと記されている。また、北本郷古墳の発掘によって古鏡、菅玉、古剣が出土、神社の宝物として保管されている。出土品はいずれも5世紀のものと鑑定され、安城市の指定文化財となっている。

 境内の広さは約1千501坪。境内には社殿、神楽殿、社務所、境内末社のほか、「さざれ石」も設置されている。「君が代」の中で歌われている同石は石灰質角礫岩で、産地の岐阜県春日村から持ってきたもの。さざれ石は小さな石の意味だが、設置された石は長い年月をかけて凝結したかなり大きな塊である。もちろん、通常期は木々に囲まれた境内は深閑とした雰囲気で、神職や係員はもちろん、参拝者の姿も滅多に見えないようだ。
 
昭和53年に造営された社殿
平成12年に改築された神楽殿

山神社
さざれ石

隣にある弥厚公園





2022年5月16日月曜日

高棚神明神社の境内社縮小

 

 高棚町町内会は月1回、町内の行事などをまとめたA3判の「たかたな町内会ニュース」を発行、回覧板を使って町内に配布している。この5月1日号に「旧西組秋葉社、津島社の遷座」という記事が載った。高棚神明神社は社殿の西側と東側に6社の境内末社を構えていたが、このうち東側の2社が老朽化していたことから閉社したと告知する内容だった。同神社では昭和4年から境内に御堂を建立して馬頭観音菩薩を安置してきたが、平成4年に取り壊し(一時別の場所に移転)、同30年に高棚薬師寺に合祀、御堂跡地には石柱と牛馬繋ぎ石を設置した。この馬頭観音も老朽化が取り壊しの契機だったが、同時に農耕の機械化も理由の一つだった。

 たかたな町内会ニュースでは、「社殿東側に鎮座されていた旧西組秋葉社・津島社において、4月2日遷座式を執り行い、社殿を閉じされていただきました。社殿の老朽化と維持管理が懸念されており、旧西組の皆さまに今後についてのご意見を集約した結果、秋葉社・津島社の神様をお返しして社殿を閉じる事となりました」と解説。秋葉社は明治29年に竣工、津島社は明治33年に竣工したという。

 社殿東側には別の組の秋葉社の建物だけは残され、撤去された2社の跡はその後空いたままになっている。当面存続可能と判断された秋葉社の組には当家もなぜか加わっており、現在もまだ社殿前の石灯籠に火入れ儀式を順番に行なっている。また、社殿西側には現在、多度社、秋葉社、御鍬社の境内社が並んでいる。いずれもかなり建物は古びてきているが、秋葉社だけは社殿前面部の板が張り替えられている。秋葉社はこのほか飛地境内社が町内2カ所にあり、高棚町では火伏せ信仰が広く根付いていると言えるが、建売住宅、新築住宅の増加と共に世帯層の若年齢化によって神道に対する信仰はかなり薄れてきているのではないだろうか。

秋葉社の右側が2社撤退して空き地に

旧西組秋葉社、津島社が撤去される前

社殿西側に残る御鍬社(左)と秋葉社、多度社



2022年5月14日土曜日

かわら美術館の復元ダ・ヴィンチ作品展

 

 レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画など名作をデジタル復元、その復元作品を集めた「夢の実現展」が4月16日に西三河地方でスタート、7月10日まで開かれている。会場は高浜市やきものの里かわら美術館で、「モナ・リザ」、「最後の晩餐」など全絵画作品16点を中心に、彫刻作品1点、建築模型2点、工学系発明品のスケッチ及び模型12点が展示された。もちろん、かわら美術館は安城市内にはないが、私の自宅からは安城市街地よりもかなり近い。

 展示作品は全てデジタル再現されたもので、東京造形大学レオナルド・ダ・ヴィンチ再現プロジェクトが手がけた。ダ・ヴィンチは「67年の生涯で残した現存絵画は16点ほど。そのうち完全な姿で残っている完成品はわずか4点しかありません。そこで没後500年目にあたる2019年に、彼が実現できなかった夢を500年後の技術で実現したいという願いから、復元プロジェクトがはじまりました。」(展示会案内パンフレット)。

 中心となる絵画作品では16点の劣化の修復、未着色のものに色彩を施すなどのデジタル復元を行っている。未着色作品や消失部分は当時の同主題の宗教画を参考に、科学的根拠に基づいて創造復元したという。特に小型下絵しか残されていない「東方三博士(マギ)の礼拝」は、修道院の注文契約通りのほぼ正方形の大型サイズで、納品された代替作の色彩を参考に鮮やかに色合いで再現。また、制作直後から顔料層の剥離を引き起こし、湿気によるカビで黒く覆われていた「最後の晩餐」は、剥離部分を周囲の色で補い、イエスの足など完全に消失部分は弟子たちの残した模写作品を参考に復元している。このほか、「モナ・リザ」、「岩窟の聖母」、「ラ・ベル・フェロニエール」も鮮やかな色彩でデジタル再現されている。

 なお、日本の展示会として珍しく会場の作品は写真撮影自由で、SNSへの投稿も自由(フラッシュ撮影、動画撮影は禁止)となっているため、自由にブログに使わせてもらった。フランスではどこの美術館も写真撮影自由だが、どうして日本ではどの展示会もほとんど撮影禁止なのか未だよく分からない。

小型下絵から色付きの大型絵画に復元された東方三博士の礼拝

モナ・リザと岩窟の聖母パリ版(左)、同ロンドン版

鮮やかな色彩で再現された処女作品の受胎告知

ラ・ベル・フェロニエール
最後の作品の洗礼者ヨハネ



 

2022年5月12日木曜日

上宮寺(岡崎市)

 

 安祥城址から約3kmの至近距離にある岡崎市西端の上宮寺は、安城市野寺町の本證寺と共に三河一向一揆の拠点となった浄土真宗の寺院。しかし、木造の建物が昭和63年8月に出火で全焼したことから平成8年3月に新築、現在の本堂は銅版屋根、コンクリート造りの非常に現代的な外観に一新しており、土塁と塀に囲まれていた戦国期の寺院の面影を全く残していない。

 境内に掲示されている岡崎市教育委員会の案内板によると、上宮寺は初め天台宗で第23代住持の時に真宗に改め、15世紀中葉に高田派から本願寺派に改派、真宗本願寺派三河3ヶ寺と称され、三河、尾張、美濃、伊勢で末寺・道場105を持つ中本山として大きな勢力を誇った。「永禄6-7年(1563-4)、地域支配権の確立を図る徳川家康と守護不入特権をめぐって対立し、三河一向一揆の拠点となった。一揆敗北後の本願寺派寺院追放命令によって、寺内は破壊されたが、天正10年(1585)に再興が認められた。寺内には、再興に尽力した松月院釋尼妙春の墓がある」。妙春尼は家康の母とは姉妹で、家康の乳母も勤め、強い影響力を持っていた。同時に熱心な本願寺門徒であったという。

 また、同案内板では、中世の上宮寺は北東南を妙覚池に囲まれた方形の平地上に建ち、三方には土塁と堀がめぐらされ、西にも土塁があったと説明。その西の塀と溝に囲まれた区画に寺内町があり、全体として守護不入の特権が認められていたという。ただし、17世紀中葉の矢作川改修や、妙覚池埋め立て工事によって、周囲の地形は大きく変わっている。

コンクリート造りで現代的デザインの本堂

本堂隣の客殿、庫裏もコンクリー造り











境内に松月院
妙春尼の墓

2022年5月9日月曜日

本證寺(ほんしょうじ)寺内

  

 城郭寺院の本證寺は内堀と外堀という二重の堀に囲まれている。内堀は本堂を囲むものと庫裏を囲むものの2つがあり、その外側に東西約320m、南北約310mの外堀がある。市教委員委員会作製パンフレット『安城歴史の散歩道』によると、外堀は三河一向一揆前の16世紀前葉から中葉(戦国時代)に掘られ、その後短期間で埋まっている。堀は傾斜が急なV字形断面をしていたが、江戸時代に同じ位置に傾斜が緩やかで幅広な浅い外堀が掘られたいう。この外堀の大半は埋められ、現在は外堀のあった場所と内堀の間には道路が走り、住宅が並んでいるが、果たして戦国時代にどのような姿だったのか? 関連書籍が出版されていないこともあり、徳川家康のNHK大河ドラマ放映を控えて一段と関心が高まりつつある

 寺内不入権侵害をきっかけとした三河一向一揆は5カ月間続き、永禄7年(1564)に和議が成立したが、家康から改宗を迫られた拒否した一向宗僧侶は追放、本證寺も破壊された。市歴史博物館発行の小冊子『よみがえる本證寺伽藍』によると、天正13年(1585)に家康の叔母で一向宗門徒・妙春尼の働きかけで本證寺など7寺の再興が認められた。慶長7年(1602)に家康が土地を寄進して東本願寺が建立されると、三河3か寺は東本願寺派の寺院となり、中本山的な位置づけで末寺のまとめ役として繁栄した。しかし、明治に入って中本山の存在が否定され、明治10年代には外堀の大半が埋められた。そういった時代を経ながら、本證寺は「内堀はほぼ完全な形で残され、土塁や外堀の一部も往時の姿をとどめるなど、全国的にも類例の少ない城郭伽藍とも言われる姿を今に伝えている」。

 内堀の外の寺内は街路が走り、寺中4か寺や家老、代官、侍屋敷、百姓家が存在していたという。また、鍛冶屋の跡などもあり、商工業関係の商いが行われていたという説もある。戦国期、「月に市場が3日間や6日間だけ開かれ、常設店舗がなかった。これは囲まれた場所ではないので、ヤクザものがやって来て商品を奪ったり、みかじめ料を要求したりしたため。東海地方で唯一、身の危険を感じず安心して商売ができるのは本證寺寺内だけだった。最低月2回、法要などで門徒が西三河各地から交代でやって来ていた。当然、お茶屋が必要で、西三河でも日帰りできないところもあり、簡易宿泊場も必要である。また、織田の圧力が強いとか、今川がどう動いていかとか、情報交換ができる唯一の空間ともなっていたと思う」(5月4日の歴史講演会で元本願寺資料研究所副所長金龍静氏)。


住宅地の中に一部残っている外堀(上の写真も)

小さな川のような本堂裏の内堀(外堀との間は田んぼだった)


2022年5月6日金曜日

一向一揆と本證寺


  “お寺でフェス”として、地域住民の主催で「本證寺(ほんしょうじ)フェスティバル」が5月4日に開催された。会場は城郭寺院として知られ、2015年に国の史跡に指定された安城市野寺町の本證寺。直産品や雑貨、食品などのテント店舗、キッチンカーなどが境内に並び、ミニコンサート、ヨガ教室、納棺体験などが行われるとともに、メーンイベントとして本堂で午後1時から安城市教育委員会主催の歴史講演会が開かれた。
 
 歴史講演会のテーマは“一向一揆と本證寺寺内町”で、元本願寺資料研究所副所長の金龍静氏が講師となって約1時間講演した。チラシの告知文では、「来年のNHK大河ドラマ『どうする家康』にも登場する三河一向一揆。家康と対立した三河三か寺の中心寺院 本證寺とその寺内町について、戦国時代の真宗史研究で知られる金龍氏が語ります」とあり、中高年の聴衆で本堂は満席状態となった。ただし、すぐ近くでゴスペルライブが行われたこともあり、後方で聞き取れないという声も出て、全体的に雑多な音が飛び交う聞き取りにくい環境となっていた。
 
 金龍氏の講演によると、戦国期に西三河に浄土真宗が定着・拡大し、1687年には本證寺の末寺は156カ所あり、自宅を使った俗人坊主の運営する道場は末寺の3、4倍になったという。こういった強固な「真宗ネットワークが1535年の松平清康(家康の祖父)、1549年の広忠(家康の父)没後、家康人質期に敵・味方を超えた西三河の一体性を保持できた」。三河一向一揆は1562年説、1563年説があり、発端も岡崎・上宮寺の干籾が兵糧米として奪われたこと、本證寺寺内で商売していた門徒の米殻などを家康家中衆が蹴散らしたことという説があるが、いずれにしても寺内不入権の侵害が発端となったという(恣意的偶然?)。家康は1560年に帰城、2年後から散発的、個別的に紛争が発生していた。戦国期、真宗の寺内化運動は不入権(不法侵入・臨時戦費等の禁止)を有力寺院に確立し、中核の大坂本願寺(石山本願寺)では1537年に寺外の寄進地まで寺内として認めさせた。

 本證寺は二重の堀と土塁に囲まれた城郭寺院で、外堀間は東西320m、南北310m、外堀の幅は3.2から5.2m、深さ1.2から1.9m。グラウンドを含めて中学校3校が入るくらいの広さで、城下町も未成立な戦国期に「東海地方で唯一ここに町場ができていた」(金龍氏)。毎月2度、西三河113カ所から交代で末寺門徒が参集し情報交換、このため茶屋は必須で、米の売買なども行われていた。寺内には家老・代官の屋敷地もあり、その家来も住んでいた。金龍氏は最後に、この本證寺の寺内町づくりが三河軍団を出発点とする徳川政権下で全国の城下町建設に援用されていったと指摘してした。
 
 三河一向一揆は浄土真宗門徒と浄土宗門徒の松平家家臣団同士の短期間・局地戦であり、和議成立で一揆勢は解散し、その後改宗命令を拒否した坊主衆は追放となった。一向一揆というと虐げられた農民など下層階級が支配者に反旗を翻すようなイメージがあるが、三河一向一揆は農民など下層階級も巻き込んだ寺内不入権を巡る松平家家臣団の宗教戦争と言える。家康は寺町づくりで不入権を拡大しつつとあった本證寺など真宗寺院を脅威に感じ、武力攻撃に踏み切ったのが一揆の正体ではないだろうか。しかし、敗れた本證寺は江戸時代に復権、幕末には200余の末寺を有する大寺となった。そして、現在でも安城市内は浄土真宗大谷派が占拠、30数カ所の町に寺院が展開されている(浄土真宗本願寺派も1寺)。
 
本堂で講演する元本願寺資料研究所副所長金龍静氏 
看板の境内図
境内を取り囲む内堀と鐘楼

本堂裏の内堀
フェスティバルでは本堂前の境内に直産品などのテントが並ぶ



安城コロナワールドでベッソン監督『ドッグマン』を

     安城市の複合娯楽施設「安城コロナワールド」にあるシネマコンプレックスで、リュック・ベッソン監督のアクション映画『ドッグマン』を観た。同シネマでは「重低音×振動シアター」大きく宣伝しているが、たまたまドッグマンがこの設備をそなえスクリーンで上映されていた。このため、安城コ...