2022年5月6日金曜日

一向一揆と本證寺


  “お寺でフェス”として、地域住民の主催で「本證寺(ほんしょうじ)フェスティバル」が5月4日に開催された。会場は城郭寺院として知られ、2015年に国の史跡に指定された安城市野寺町の本證寺。直産品や雑貨、食品などのテント店舗、キッチンカーなどが境内に並び、ミニコンサート、ヨガ教室、納棺体験などが行われるとともに、メーンイベントとして本堂で午後1時から安城市教育委員会主催の歴史講演会が開かれた。
 
 歴史講演会のテーマは“一向一揆と本證寺寺内町”で、元本願寺資料研究所副所長の金龍静氏が講師となって約1時間講演した。チラシの告知文では、「来年のNHK大河ドラマ『どうする家康』にも登場する三河一向一揆。家康と対立した三河三か寺の中心寺院 本證寺とその寺内町について、戦国時代の真宗史研究で知られる金龍氏が語ります」とあり、中高年の聴衆で本堂は満席状態となった。ただし、すぐ近くでゴスペルライブが行われたこともあり、後方で聞き取れないという声も出て、全体的に雑多な音が飛び交う聞き取りにくい環境となっていた。
 
 金龍氏の講演によると、戦国期に西三河に浄土真宗が定着・拡大し、1687年には本證寺の末寺は156カ所あり、自宅を使った俗人坊主の運営する道場は末寺の3、4倍になったという。こういった強固な「真宗ネットワークが1535年の松平清康(家康の祖父)、1549年の広忠(家康の父)没後、家康人質期に敵・味方を超えた西三河の一体性を保持できた」。三河一向一揆は1562年説、1563年説があり、発端も岡崎・上宮寺の干籾が兵糧米として奪われたこと、本證寺寺内で商売していた門徒の米殻などを家康家中衆が蹴散らしたことという説があるが、いずれにしても寺内不入権の侵害が発端となったという(恣意的偶然?)。家康は1560年に帰城、2年後から散発的、個別的に紛争が発生していた。戦国期、真宗の寺内化運動は不入権(不法侵入・臨時戦費等の禁止)を有力寺院に確立し、中核の大坂本願寺(石山本願寺)では1537年に寺外の寄進地まで寺内として認めさせた。

 本證寺は二重の堀と土塁に囲まれた城郭寺院で、外堀間は東西320m、南北310m、外堀の幅は3.2から5.2m、深さ1.2から1.9m。グラウンドを含めて中学校3校が入るくらいの広さで、城下町も未成立な戦国期に「東海地方で唯一ここに町場ができていた」(金龍氏)。毎月2度、西三河113カ所から交代で末寺門徒が参集し情報交換、このため茶屋は必須で、米の売買なども行われていた。寺内には家老・代官の屋敷地もあり、その家来も住んでいた。金龍氏は最後に、この本證寺の寺内町づくりが三河軍団を出発点とする徳川政権下で全国の城下町建設に援用されていったと指摘してした。
 
 三河一向一揆は浄土真宗門徒と浄土宗門徒の松平家家臣団同士の短期間・局地戦であり、和議成立で一揆勢は解散し、その後改宗命令を拒否した坊主衆は追放となった。一向一揆というと虐げられた農民など下層階級が支配者に反旗を翻すようなイメージがあるが、三河一向一揆は農民など下層階級も巻き込んだ寺内不入権を巡る松平家家臣団の宗教戦争と言える。家康は寺町づくりで不入権を拡大しつつとあった本證寺など真宗寺院を脅威に感じ、武力攻撃に踏み切ったのが一揆の正体ではないだろうか。しかし、敗れた本證寺は江戸時代に復権、幕末には200余の末寺を有する大寺となった。そして、現在でも安城市内は浄土真宗大谷派が占拠、30数カ所の町に寺院が展開されている(浄土真宗本願寺派も1寺)。
 
本堂で講演する元本願寺資料研究所副所長金龍静氏 
看板の境内図
境内を取り囲む内堀と鐘楼

本堂裏の内堀
フェスティバルでは本堂前の境内に直産品などのテントが並ぶ



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