2022年5月9日月曜日

本證寺(ほんしょうじ)寺内

  

 城郭寺院の本證寺は内堀と外堀という二重の堀に囲まれている。内堀は本堂を囲むものと庫裏を囲むものの2つがあり、その外側に東西約320m、南北約310mの外堀がある。市教委員委員会作製パンフレット『安城歴史の散歩道』によると、外堀は三河一向一揆前の16世紀前葉から中葉(戦国時代)に掘られ、その後短期間で埋まっている。堀は傾斜が急なV字形断面をしていたが、江戸時代に同じ位置に傾斜が緩やかで幅広な浅い外堀が掘られたいう。この外堀の大半は埋められ、現在は外堀のあった場所と内堀の間には道路が走り、住宅が並んでいるが、果たして戦国時代にどのような姿だったのか? 関連書籍が出版されていないこともあり、徳川家康のNHK大河ドラマ放映を控えて一段と関心が高まりつつある

 寺内不入権侵害をきっかけとした三河一向一揆は5カ月間続き、永禄7年(1564)に和議が成立したが、家康から改宗を迫られた拒否した一向宗僧侶は追放、本證寺も破壊された。市歴史博物館発行の小冊子『よみがえる本證寺伽藍』によると、天正13年(1585)に家康の叔母で一向宗門徒・妙春尼の働きかけで本證寺など7寺の再興が認められた。慶長7年(1602)に家康が土地を寄進して東本願寺が建立されると、三河3か寺は東本願寺派の寺院となり、中本山的な位置づけで末寺のまとめ役として繁栄した。しかし、明治に入って中本山の存在が否定され、明治10年代には外堀の大半が埋められた。そういった時代を経ながら、本證寺は「内堀はほぼ完全な形で残され、土塁や外堀の一部も往時の姿をとどめるなど、全国的にも類例の少ない城郭伽藍とも言われる姿を今に伝えている」。

 内堀の外の寺内は街路が走り、寺中4か寺や家老、代官、侍屋敷、百姓家が存在していたという。また、鍛冶屋の跡などもあり、商工業関係の商いが行われていたという説もある。戦国期、「月に市場が3日間や6日間だけ開かれ、常設店舗がなかった。これは囲まれた場所ではないので、ヤクザものがやって来て商品を奪ったり、みかじめ料を要求したりしたため。東海地方で唯一、身の危険を感じず安心して商売ができるのは本證寺寺内だけだった。最低月2回、法要などで門徒が西三河各地から交代でやって来ていた。当然、お茶屋が必要で、西三河でも日帰りできないところもあり、簡易宿泊場も必要である。また、織田の圧力が強いとか、今川がどう動いていかとか、情報交換ができる唯一の空間ともなっていたと思う」(5月4日の歴史講演会で元本願寺資料研究所副所長金龍静氏)。


住宅地の中に一部残っている外堀(上の写真も)

小さな川のような本堂裏の内堀(外堀との間は田んぼだった)


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