桜井町の円光寺は大きな鼓楼(ころう)が道路からも目に付く城郭寺院で、戦国期の住職順正は三河一向一揆で活躍したことで知られる。最後の決戦では総大将の本證寺住職・空誓(くうぜい)の身代わりになって自害し、本寺への忠死として讃えられた。その自害した場所は古代の円墳と言われる加美古墳の上で、そこに墓石が立っている。
円光寺はもともとは天台宗の寺院だったが、応仁年間に真宗本願寺派に転宗した。西三河地方で同派が拡大したのは蓮如の時代からで、本證寺、岡崎市の上宮寺も蓮如が活躍した頃に真宗高田派から転宗している。円光寺は大きな鼓楼が印象的だが、現在はそれ以外に城郭寺院の雰囲気はない。しかし、郷土史『桜井の歴史』によると防火用水が掘られた時、堀の底らしい場所に室町時代の土器片が現れたため、堀を巡らせた城郭伽藍の形をとっていたとみられる。
円光寺順正の墓は小川町の木に囲まれた高さ2mほどの円墳の加美古墳上にあるが、隣の加美地蔵尊の建物に隠れるようにして墓石は立っている。表には「安政院釈順正師墓碑銘」とあり、裏面には漢文で順正の業績が書かれている。同地から本證寺まで直線距離で1300mで、「当時は本證寺のイラカまで見通せたのではないか。目と鼻の先での戦いだったのである」(桜井の歴史)。
石板によると、隣の加美地蔵尊は「もとは村はずれに立てて悪魔や疫病神が村に入るのをふせいでいた地蔵尊です。扁平な体、わずかに見える錫杖、幅広い足首など特徴ある表現がみられ、江戸時代初期をくだらないものとわかります」。古墳の上に悪魔、疫病神を防ぐ地蔵尊と順正の墓、不思議な雰囲気の場所となっている。
0 件のコメント:
コメントを投稿