浅草の神谷バーの創業者で日本のワイン王と言われ、明治・大正時代に活躍した西尾市一色町出身の実業家の神谷傳兵衛。同氏の没後100年記念事業が刈谷市で行われ、神谷傳兵衛伝マンガ冊子を小・中学校に無償配布すると共に、刈谷市中央図書館2階で9月4日から25日まで記念展示会「神谷傳兵衛と刈谷の発展史」を開催している。刈谷市では三河鉄道の経営危機に社長して再建に尽力し、沿線に東洋耐火煉瓦工場を創業するなど、刈谷市発展の礎を築いた。
後の名鉄三河線に変わる三河鉄道計画は、刈谷から碧南までの碧海軽便鉄道計画と挙母(こもろ)から知立までの知挙(ちきょ)軽便鉄道計画を合わせて、本格的な鉄道を敷こうというものだった。大正3年に刈谷駅と大浜港駅(碧南市)間で開業し、翌年に知立駅と刈谷駅間、その後挙母駅(豊田市)と知立駅間、大浜港駅と三河吉田駅間などが開業していった。大正5年には東京在住のまま大株主だった神谷傳兵衛が社長に就任、追加の株式発行などで資金を調達して経営危機を救った。
神谷バーと牛久のシャトーカミヤ |
神谷バーの電気ブラン |
神谷傳兵衛は生前に蒲郡まで三河鉄道の延伸を計画していた。大正15年、死後4年経って大浜港から生誕の地である松木島まで延伸できたことから、功績を讃えて駅名も「神谷駅」とした。神谷駅は、当時では珍しかった鉄筋コンクリート造りで、駅舎内には駅長室隣に貴賓室が設けられ、専用の入口から貴賓室まで赤いじゅうたんが敷かれていた。駅舎の設計は、現刈谷市郷土資料館などの設計を手掛けるなど西三河で活躍した大中肇が行った。
三河鉄道は昭和11年には蒲郡駅まで延伸されたが、神谷駅は昭和24年に松木島駅に変更され、同53年に老朽化のため駅舎は撤去された。そして、平成16年には三河線の一部廃線が決まり、玉津浦駅(大浜港隣)と松木島駅間は撤去となった。「それは皮肉にも神谷傳兵衛が強く望んだ三河の発展が自動車産業を促進させ、神谷傳兵衛を顕彰する駅舎と線路をこの世から消してしまう結果となった」(神谷傳兵衛伝マンガ冊子)。
三河鉄道神谷駅の模型 |
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