安城市の東部には安祥城址を中心に戦国時代の城址、古戦場、墓碑などが散在している。山崎城址もその一つだが、現在、同城址は山崎神明社の境内となっており、北側には幅13m、深さ2mの堀が50mほど残っている。この堀に接する土塁の上に神明社の本殿、拝殿、社務所が並ぶなど、まさに戦国時代の歴史が肌で感じられるような神社である。同時に、正面入り口から拝殿に続く参道沿いに公民館、老人憩いの家と兼用の山崎町内会の建物があり、運営母体が町内会という旧村社が大半の中で、一歩進めて町内会と一体化した形態の旧村社とも言える。
安城市教育委員会の史跡説明の表示板によると、山崎城は戦国時代の典型的な方形城館で、もとは「岡の城」、「大岡城」と呼ばれていた。天文12年(1543)に、織田氏と密接な関係にあった松平信孝が今川方の岡崎城からの攻撃に備えて築城、同17年に松平信孝が戦死したため、城主不在となり、同18年に安城合戦に今川氏が勝利すると廃城となった。その後、小牧・長久手の戦いの後、羽柴勢との緊張関係の中で、徳川勢が改修工事をしたという説もある。
神明社の祭神は天照大神、奥津日子命(おきつひこのみこと)、奥津比売命(おきつひめのみこと)。入り口の社誌板によると、「気候変化と地盤沈下に伴う海進と後退を経て舌状大地にして寥々なる農漁村たり茲に奥津日子命、奥津比売命を祀りしもその年代詳ならず」。愛知県神社名鑑によると、神社の創建は天文年中(1532-54)。城を築いた松平信孝が祠に祈り、城の守護神として崇敬したという。信孝戦死後は荒廃し、「神域も狭隘なりしを以て本城跡に遷座す。明治17年秋 社殿を修理し天照大神を合祀し神明社と称す。同23年 拝殿を設ける」(社誌)。その後、祭器庫を新築し境内地を拡大。昭和16年に村社に列格し、共進指定社となる。ちなみに、奥津日子命、奥津比売命は台所の「かまど神」として知られる。
堀が残る城址
広い境内
堀に接する本殿
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