宗教学者島田裕巳氏によると、明治4年に神社が「国家の宗祀」と位置付けられ、官費を支給する官社と諸社に分けられた。さらに諸社は府県社、郷社、村社に分けられ、府県、市、村などが経済的援助を行い、終戦まで神社信仰を国民道徳として強要するようになっていった。桜井町の櫻井神社は安城市で唯一の旧県社で、徳川家康の祖父の松平清康が武運長久を祈願した三河三白山の一社でもある。三間社流造、切妻造の本殿は市指定有形文化財建造物で、室町時代の神社建築様式をとどめているという。
また、櫻井神社は桜井古墳群を構成する比蘇山(ひそやま)古墳の墳丘上に本殿が建っている。しかし、同古墳についての案内板はどこにもない。すでに古墳全体がかなり削られているので、全体の大きさもはっきり分からなくなっているようだ。すぐ北にある二子古墳は全長68mの前方後円墳で、かつて墳頂に天神社が祀られていた。同神社は大正3年に櫻井神社に合祀され、その後社殿は境内社の御鍬社として移築された(平成27年に解体)。
市教育委員会の看板によると、櫻井神社の由来は平安時代以前にさかのぼり、伝承では古墳時代に第11代垂仁(すいにん)天皇の娘が行幸されたことを受けて、井戸を掘り、その傍らに小祠を建てたことが創始という説がある。平安・鎌倉時代には「桜井天神」、室町時代には「神明社」や「白山社」、江戸時代には「桜井権現」と呼ばれ、明治時代になってから櫻井神社の呼称が使われた。一向一揆の際に徳川家康が戦勝を祈願し、叶えられたことから、江戸時代初期に徳川家から社領の寄進を受けた。大正3年(1914)、桜井七ヶ村にあった神社すべてが神社合祀令によって合祀され、現在の櫻井神社になったという。昭和5年に社殿を造営、郷社から県社に昇格した。
境内は約3千947坪(北の二子古墳851坪含)と非常に広い。長く伸びる参道の黒松並木は市の天然記念物。祭神は伊弉諾神(いざなぎのかみ)、伊弉冉神(いざなみのかみ)、菊理媛神(くくりひめのかみ)、菅原道真、火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)、火産霊神(ほむすびのかみ)、応神天皇(おうじんてんのう)、八幡大神(はちまんのおおかみ)、天照大神(あまてらすおおみかみ)、倭姫尊(やまとひめのみこと)。境内末社として弁財天社、稲荷社があり、稲荷社の隣には薬師堂も設置されている。この薬師堂は、櫻井神社の本地仏として立像と共に安置されていたという市内最古の木像である薬師如来坐像が納められている。
境内に掲示されている資料で氏子数は千800戸と報告。桜井町は3千世帯強の世帯数があり、それから考えると町内会の住民世帯をすべて氏子としている旧村社と比べて微妙な数と言える。旧県社と言っても参拝者は桜井町以外にはそれほど広がっていないようだ。もちろん、通常時は社務所は無人状態で、ほとんど境内に人の姿はない。
古墳上に建つ社殿
境内社の弁財天 |
境内社隣にある薬師堂 |
黒松の参道 |
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