安城市内にかつて飛行場があった。第2次大戦中に急きょ造られ、戦後すぐ関係者に払い下げられて大半が農地に戻されたたため、知っている市民は少ないと思う。油ヶ淵の東側、東端町、根崎町、和泉町にまたがる地域(旧碧海郡)に建設されたもので、名称は「明治航空基地」。東端町の東端公園には終戦50周年を記念して明治航空基地之碑が建てられ、上の写真のような基地の再現図も石板に刻まれている。 市教育委員会作成の歴史の散歩道パンフレットによると、明治航空基地は海軍の基地として昭和18年4月に地元民や学生を動員して建設が始まり、翌年5月から未完成のまま使用され始めた。面積は200haで、最終的には6本の滑走路が造られ、最大時で航空機217機、隊員総数4千78人が所属していたという。昭和20年3月に全国の飛行隊は鹿児島県内の基地に集結、沖縄近海の米艦船への攻撃を開始したが、大半の航空機を失った。6-7月になると、基地は米航空隊の空襲を受けるようになったが、本土決戦に備えて迎撃には参加せず、機体を掩体壕(えんたいごう)に隠し、隊員は防空壕に避難する状態が続き、終戦を迎えた。
現在、残存している基地関係の施設は、燃弾庫(ねんだんこ)、弾薬庫、防空壕、非常用発電施設、油蒸留場跡。基地本部のあった木造兵舎は東端町・明祥中学校の校舎として昭和60年まで使用され、その後取り壊された。燃弾庫はドラム缶に入った航空機用燃料や弾薬を空襲から守るための施設で、その一つは東端町の老人ホーム敷地内に残されている。また、同じ東端町にある弾薬庫の一つは、屋根を付けて現在も倉庫として利用されている。非常用発電装置はアーチ型ドーム形状で、内部は奥行14m、幅5m、高さ4mあり、空爆に耐える頑丈なつくりとなっているが、現在は中に入ることができない。
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東端公園の明治航空基地之碑 |
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老人ホーム内の燃弾庫 |
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畑の中にある燃弾庫 |
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農地と住宅に挟まれたレンガ造りの弾薬庫 |
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レンガ造りの油蒸留場跡
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根崎町から東端町にかけて4本の滑走路があった |
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