2022年7月1日金曜日

三河大浜騒動


  西尾市立図書館の隣にある古書ミュージアム「岩瀬文庫」は、5月14日から8月31日まで特別展「三河大浜騒動150年~近代化の光と影~」を開催している。前期と後期で展示を入れ替える計画で、前期は6月26日に終了し、後期は7月2日から開始した。また、7月2日には西尾市文化会館で「再考!三河大浜騒動から問われていること」をテーマに記念シンポジウムを開催した。

 明治4年(1871)、三河地方で起こった「大浜騒動」と呼ばれる事件とは何だったのか? 騒動の背景には、岡崎、安城、高浜、西尾など三河地方が浄土真宗の盛んな地域であったことが挙げられる。岩瀬文庫の特別展で配布された三河殉教記念会事務局(西尾市正念寺内)が作製した大浜騒動のリーフレットから概要をみてみた。

  <騒動の発端> 
 明治新政府は強固な天皇中心国家をつくるため、神道を「国教」にすることを目指し、宗教改革に着手した。大浜周辺を飛地支配している上総国菊間藩(千葉県市原市)は、新政府の方針を具体化するため神道儀礼の強要、寺院統廃合などの政策を打ち出し、実施に取りかかった。しかし、三河の浄土真宗門徒は「神道儀礼の強要」に反感を抱いた。また、耶蘇教(キリスト教)の進出に危機感や不安を抱く者も多かった。

  <騒動の経緯>
 明治4年2月15日、3月8日、岡崎の暮戸会所で三河護法会(三河の僧侶が学びを深める会)の僧侶100人以上が集まった。そこで菊間藩の打ち出した神道儀礼の強要、寺院統廃合などの宗教改革への対応を協議した。
 3月9日、石川台嶺をはじめ、菊間藩への直談判に立ち上がった僧侶30余人が暮戸を出発し、現在の役所にあたる大浜出張所に向かう。
 桜井の方行寺に立ち寄ると門徒農民が聞きつけ一向に加わり始めた。米津の龍讃寺で待機しているとデマも飛び交い、農民が付近の竹林の竹を切って高張り提灯や竹やりを作り始めた。台嶺はそれを静止し、菊間藩領の入り口、鷲塚へと向かった。
 鷲塚の池端蓮成寺ほか3寺に数千人の門徒農民が集まり、庄屋片山邸に出張してきた役人と台嶺らとの話し合いを待っていた。しかし、話し合いはまとまらず、いらだった門徒農民は暴徒化して片山邸を襲った。そして、逃げ遅れた役人藤岡薫を殺害してしまった。

  <騒動後>
 石川台嶺は騒動の責任を問われ、裁判の後、同年12月27日に現・西尾市葵町の獄舎で斬罪に処せられた。門徒の榊原喜代七も絞罪となり、その他約40人の僧侶・門徒が投獄された。その後、菊間藩や諸藩は神道儀礼の強要や寺院統配合の方針を撤回したが、政府は神道化の道を試行していった。
新潟県出身の田中長嶺「殉教絵詞」は背景、発生から結末までを描く

 
  なお、特別展は2階企画展示室で開催し、石川台嶺血染めの白衣、幽囚日記などを展示した。大半の展示物は撮影禁止となっているため、ここではビデオが流されていた1階市民ホールの壁面に掲げられていた展示物のみ取り上げた。


 






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