1982年に開かれた大浜騒動企画展ポスター |
1979年3月に発刊された郷土史『桜井の歴史』では、地域で騒動に加わった東本願寺派門徒が多かったことから明治維新の項目で大浜騒動を大きく取り上げている。同書は、桜井小・中学校の児童・生徒に向けて、小・中学校の職員が力を合わせて書いたものという。編集調査にあたっては、町の人の人々から多くの教示を得、児童・生徒の夏休みの研究を原稿作製の足がかりにしたものもあるとしている。
『桜井の歴史』では、「維新期のこの地方にとって、最大の事件は1871年(明治4)春におこった」として、菊間藩事件とも呼ばれる大浜騒動の背景、経緯などを説明。「新政府にとって『神仏分離令』は成立したばかりの権威を人々に意識させる最大のものだった。また、信仰の上でも、経済的にも巨大な力を持つ東本願寺の勢力を分散させる必要があった。そうした中で、新政府の方針を一層徹底させようして廃仏政策をとった藩の一つが、菊間藩だった。一般農民のなかには御維新によって、もっと世の中がかわることを期待する面があった。それらを含めた不満が信仰問題と重なって爆発したのである。桜井には東本願寺派寺院が多く、その信者(門徒)がきわめて多かった。そのため事件は桜井を大きくまきこんだ」と記載している。
そして、事件の経過を知るため、1975年に中学生がまとめたレポートを掲載している。そのレポートを抜粋してみると-----。
「(菊間藩大浜出張所の少参事)服部純は、寮内の寺院の住職を呼び出して、檀徒が50戸以下の寺院をなくしてしまうことを命令した。これを聞いた僧侶は、本山に相談したいという理由で、延期を願ったが、服部純は受け入れようとしなかった。」、「9日の夜明けごろに、命令の延期を願いに大浜へ出発する。途中の桜井村の方行寺についたときには、門徒がみの笠姿で数百人もついてきていた。また、龍讃寺についたころには、それが2、3千人にもたっしていて、竹やぶは竹がなくなってしまうほど切り倒されて、竹やりがつくられた。」、「この事件のために、石川台嶺は斬首刑になった。その日の夕焼けが、とても美しく、台嶺様が、極楽に往生された印だといわれている。今もこのときの衣が寺にのこっていて、去年私も見せてもらった。」、「この事件をとおして考えさせられたことは護法の名のもとにおきた騒動の大きさと、片方でよいことをしたように思える気持ちとの、矛盾だった。確かに、人を殺したりするのは大犯罪にちがいないが、私の心には犯罪という面よりも、仏教のために役人にたちむかっていった、英雄のように思えるのだ。」
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