安城市歴史博物館の隣は、戦国時代に織田信秀(織田信長の父)と松平広忠(徳川家康の父)が激しい争奪戦を繰り広げた舞台の安城城址。本丸跡には江戸時代の寛政4年(1792)に浄土宗の大乗寺が建てられ、安城4代城主(親忠、長忠、信忠、清康)の位牌が安置されている。二の丸跡には松平親忠が創建した東尾八幡社が建っており、本丸跡の大乗寺と合わせて城址の雰囲気はあまり感じられない。桶狭間の戦い後に廃城となったが、城のあった当時は周りの沼地が自然の堀となり、出入り口は北側だけだったという。
安城城が築城された年代は明らかでないという。市教育委員会の案内板によると、文明年間(1469-87、有力なのは文明8年)に岩津城(岡崎)の松平信光が奪い取り、以後、信光の子親忠が城主となり、4代の清康(徳川家康の祖父)が岡崎に移るまで、松平の総領家となっていた。天保9-18年(1540-49)の安城合戦では、織田信秀と松平広忠の間で3度にわたって城を奪い合ったという。「今日、私たちが目にしている安城城は、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いに備え、徳川勢によって、当時の新しい縄張り(城を構成する区画である曲輪や塀、土塁の配置)への改修が加えられた姿と考えられる」。
本丸跡には浄土宗の大乗寺が建つ |
本多忠高(忠勝の父)の大亀の墓碑 |
案内板の安城縄張り図では、曲輪A(現大乗寺)を中心に複数の曲線が配され、周囲を塀と土塁が囲んでいる。特に八幡社との間の堀は、内部が複数に区画される障子堀となっていた。Aの北東にはC、D、Eの3つの曲輪が組み合わされ、北から容易に侵入できない工夫がされていた。Aの南端とCの東端にはそれぞれ櫓(やぐら)が設けられていたが、現在、Aの櫓跡は高台となり、Cの櫓跡には祠が置かれ、痕跡を確認できるという。また、大乗寺境内には安城合戦で松平軍の主将として戦死した本多忠高(忠勝の父)の大亀の墓碑がある。
三の丸跡に建っている東尾八幡社は、1479年に安城城主となった松平親忠が城中に創建、鎮守の神として崇めたもの。由緒略記の石板によると廃城後は東尾一村の氏神となり、領主などからも崇敬された。明治5年に村社に列し、終戦後は神社本庁所属の宗教法人となった。平成8年に社殿、社務所、境内社が再建された。境内社は秋葉社と神明社の2社ある。氏子数はわずか151戸と記されている。
平成3年に開館した安城市歴史博物館 |
なお、現在使われている「安祥城」の名称は江戸時代から使用されるようになったが、城として存在した時期は「安城城」の名称だったという(安城の史跡めぐりリーフレット)。
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