安城市桜井町の城山公園は、かつて桜井松平氏の居城・桜井城があった。1990年に徳川家康の関東移住に伴って、6代城主も武蔵国に移ったため廃城となった。南側に土塁、石積みがあり、入り口には冠木門、燈明台もあるが、土塁以外は後世に復元されたようだ。土塁の上には「櫻井城址」の石碑がたち、公園の西隣には6基の歴代城主の墓標が集められている。土塁や墓標を見ると、約70年と歴史は短いながら城址ならではの雰囲気が感じられる場所と言える。
入り口ある安城市教育委員会の市指定史跡の案内板では、碧海大地が湿地帯へ舌状に突き出した天然の要害に築城された平城として次のように説明。「豪族小浦喜兵治が城を構えたといわれ、1472年(文明3)松平信光の安祥城進出により、松平氏の支配下に入ったと推定されています。1520年代松平親房(安祥城松平初代松平親忠の3男)の居城となり、ついで信定(2代松平長親の3男)が城を整えました。2代清定、3代家次、4代忠正、5代忠吉と継ぎ、1590年(天正18)6代家広が、徳川家康の関東移封に従い、武蔵野国松山城に移り、廃城となりました」。
1979年に地元小・中学校が発行した「桜井の歴史」によると、桜井松平の信定は妻には織田の娘を迎え、自分の娘は織田側の城である刈谷城や守山城に送り込み、安城・岡崎の松平に対立するほどの勢力になっていたという。松平清康の暗殺は桜井の松平信定がしくんだという説さえ出されている(岡崎市史別巻)。清康が殺されてからしばらく、信定が岡崎に入って松平家臣団を指示したともみられている。
三河一向一揆でも、桜井松平の家次は吉良庄東条城主、八ツ面山城主らと共に一向宗側についた。一揆終了後、吉良は城を明け渡して詫びを入れたが許されず、その後に上方去り、八ツ面山城主も許されず河内に去った。しかし、桜井松平は家康の許しを得て桜井の本領を認められた。そして、三河全域を掌握した家康軍団の家老となった酒井忠次組に連なった。
城址の西隣に歴代城主の6基の墓標 |
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