江戸時代に幕府領となっていた安城村は、1698年(元禄11年)に旗本久永重利の領地となり、旗本久永領時代は明治維新まで続いたという。安城陣屋は久永領安城村の行政の中心となった場所だが、現在では奥に石造の祠や灯籠が奥に置かれているだけの草地で、市教育委員会の市指定史跡の案内板がなければ単なる草の生い茂った空き地としか見えない。史跡と表示してありながらあまりにも放置感が漂っていると書いても書きすぎではないような場所である。
場所は安城町の安祥城址と安城古城址の真ん中あたりの住宅地にある高台の一角。実際の安城陣屋はもっと広かったようだが、隣に新しい建物が建っているのでよく分からない。また、初めは現在地より南の大地の突端にあり、城郭の立地条件に適合するような場所だったが、何らかの理由で村の中心地の近くに建て直されたという。
地元西尾町内会が編纂した『安城 西尾の歴史』によると、陣屋跡にある2つの祠の右側は稲荷社で、左は山の神。稲荷社は陣屋に祀られていたものと伝えられているが、山の神は東海道新幹線の用地内から移されたという。同郷土史では、「東西二十八間、南北四十二間、周囲土塀あり、東南隅ニテ大手門、西中央ニ裏門、大手門西ニ長屋アリ、中ノ門北ニテ座敷及ビ事務所アリ」などと古い資料を引用、「安城陣屋には武士身分の常駐者が複数いたと推定される。また、奉公人を男女数人置いていた」と記述している。
裏から見ると高台に陣屋があったことが分かる |
市教育委員会によると、元禄11年に旗本久永信重は碧海郡安城村と共に、同郡米津村、加茂郡加納村、同郡三箇村の4354石を知行した。久永家は初代が石見国(島根県)から三河国額田郡に移り、松平清康につかえた。三代重勝が徳川家康に従って各地で戦い、弓頭となって5200石を得ているという(西尾の歴史から)。久永家の墓は安祥城址の大乗寺にある。
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