日本のワイン王と呼ばれ、三河地方の産業発展にも貢献した神谷傳兵衛の功績を語り継ぐため「傳兵衛クラブ刈谷」は2年前に発足、9月4日から25日まで刈谷市中央図書館で同氏の「没後100年記念展示会」を開催している。また、これに合わせて9月18日、同図書館3階大会議室で公開講演会を開催した。講師は傳兵衛クラブ刈谷主宰の前刈谷市川口孝嗣副市長で、「神谷傳兵衛と刈谷の発展史」をテーマに午後2時から約2時間講演を行った。
講演会で配布された資料によると、戦国時代の1533年に刈谷城が築かれ、刈谷のまちづくりが始まった。初代城主は徳川家康の生母於大の父に当たる水野忠政で、信元、忠重と続き、1600年に水野勝成が刈谷藩の初代藩主となる。以降、刈谷藩政は9家22人の藩主で継がれた。幕末には討幕の志士「天誅組」が刈谷から決起。その天誅組の精神は亀城小学校の校訓(自重、向上、協同)や校歌に伝えられてきた。また、維新直前の「刈谷城大手門外の変」で3家老が斬殺された。
明治維新では、江戸家老の大野一族が刈谷に移り住み、藩内の士族返上をいち早く進めて、養蚕業や煉瓦製造を進めた。煉瓦製造から鉄道省の情報を得て、安城市との誘致合戦に勝って明治21年に東海道本線刈谷駅を設立した。東海道本線の駅は大府と岡崎の中間駅を造ろうという計画で、内定していた安城駅をひっくり返したという。続いて、東西の東海道本線に南北に交差させる三河鉄道を企て、神谷傳兵衛を大株主として取締役に巻き込んだ。大正7年に神谷傳兵衛が設立した東洋耐火煉瓦刈谷工場が駅前に稼働(現在のアピタの場所)、これが刈谷の産業発展の始点となった。工場長の大野一郎は刈谷藩家老だった大野定の弟の長男で、刈谷発展の祖として名誉市民第1号となった。
講演はどちらかというと刈谷の発展史の方に比重が置かれていた。最後の方では、10万坪の用地を求めていた豊田利三郎の要望に応え、豊田紡織試験工場が刈谷に建設され、ここから豊田7社の発展が始まったと説明。ただし、自動車生産に取り組んだ豊田自動織機製作所から100坪の用地を求められ、応えられずに挙母に決まったという。これが刈谷を越える豊田市の発展につながったと、前副市長らしく残念な気持ちを吐露していたのが印象的だった。
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