2022年12月27日火曜日

GHQが禁止の町内会は安城市では1962年に復活

  町内会は地域のまとまりのため日中戦争以降に整備されたもので、1940年9月に内務省訓令によって村に部落会、町に町内会をつくり、その下に隣組を置くことが決定した。戦後、GHQが軍国主義的な制度の末端行政事務を担う機関として活動を禁止、存続を図る内務省との対立もあったが、1947年4月に廃止された。しかし、その後も形を変えて生き残り、1952年のサンフランシスコ講和条約締結によって町内会廃止令が解除され、地域組織として町内会は復活した。「万民翼賛」を図る隣組は1組10人程度でつくられ、回覧板と常会を通じて日々の生活に関わったという(国立公文書館のアジア歴史資料センター)。回覧板を使った情報伝達など、現在活動する安城市内の町内会の組・班と、戦前の町内会の隣組とあまり変わっていない気もする。

 2018年発刊の『新編安城市史』の第4巻通史編現代には、町内会廃止令に伴って「住民組合」と名称を変えて活動を続け、1962年4月に町内会が正式に復活する経緯について詳述している。戦後発足した住民組合については、「民主主義を基本として組織され、町内会廃止令後、旧町内会を単位として組織された。しかし、今まで通り戦前の町内会の範囲と住民が基本的な構成であり、その下部組織として、これも戦前からの組が基本的な形であった」(通史編現代、第2章地域の論理・第2節住民組合の運営)と書いている。民主主義を基本とするため組合の加入・脱退は自由で、強制加入だった戦前の町内会とは違った。

 市内の町村合併が進んだ1958年、住民組合制度に関する答申が行われた。特に問題となったのは、「地域ぐるみ」の体質を持つ農村部の住民組合。「固定化した役員によって封建的な相互関係を形成して、選挙その他重要な問題に対しては組合が主導権を握り、ますます地域根性を強化させている」。工場誘致で増加した勤労者からは、「従来の住民組合の非民主的運営と強制的な住民組合費の徴収が過重負担であるなど二重行政撤廃を市へ要求している」現状が示された。1962年2月、市長が62年度重点政策として住民組合制度改善を取り上げ、1)住民組合を廃して町内会とすること 2)消防署の充実と消防分団の統合整理で税外負担の解消 3)市役所の合理化、事務機械の導入で余剰人員を適正配置して住民組合の委託事務軽減などを挙げた。

 この時に住民組合の問題点となっていたのは、1) 事務量の増加により経済的余裕のある者に役員が限定され、運営の合理化や改善意欲が沈滞、農村部の持つ封建性温存のために地方自治の民主化を停滞させている 2) 組合費の徴収に受益者負担の原則が比較的軽視されている 3) 地域根性の強化が住民組合間の対立をあおり、市事業も総花的になって重点施策が事実上不能となっている 4) 市議会議員の住民組合の推薦がなければ当選が困難である 5) 法定外の地元負担金・寄付金などの規定は地域不均衡を生じるとともに、一方的な立替工事の実施を増大させ、民主制度を悪用した圧力団体に変じてこの支出を要求し、市財政計画を破綻させる原因となっている。それら課題については、住民組合が持つ根強い封建制と慣習と共に、安城市が「住民の便宜という美名にかくれて、必要以上に住民組合を利用したことが最大の原因」としている。

 しかし、その後財政再建が4年度間のところ61年度で終了、「住民組合の改革手順は徹底して行われることなく、根本的な問題の解消をせずに、いわゆる高度経済成長期の好景気の中に放置されていったのである」。特に農村部の町内会は封建性を温存した体制が現在も残っている。町内会費と別に同額かそれ以上の組費(ブロック費)の徴収を行なっているところもあり、移転してきた住民が戸惑うようだ。また、市議会議員については住民組合の問題点が今も解消されておらず、町内会の推薦がないと現役議員でも出馬できないような状況が出ている。


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