小川町志茂の本城公園の東側一帯は、かつて松平家(後の徳川家)に仕えた石川氏3代の居城だった小川志茂(しも)城の跡である。すぐ近くには大浜騒動主唱者の蓮泉寺・石川台嶺が火葬された場所に建てられた墓石「護法有志の墓」があるが、その隣には初代城主の石川政康の墓所もある。墓所の東側に立っている蓮泉寺は、四男の康頼を浄土真宗本願寺派の僧侶にして、真宗本願寺派拡大に協力した政康が石川家菩提寺として建立したもの。今は静かな住宅地の小川町志茂は、いろいろな歴史が重層したような地域といえる。
小川志茂城跡の本城公園は名称に「城」の文字は入っているが、城の面影は全く感じられない普通の公園である。ただし、東屋の一角に「本城の由来」という石板がはめ込まれており、城跡だったことが分かるようになっている。その石板では、「本城公園の一帯は小川城の跡で、今から凡そ五百年の昔、石川政康が築城し、その子康長、春重の三代の居城となった所であります。石川氏の一族は代々松平氏(後の徳川家)に仕え、清兼、康正、家成、数正の諸将は岡崎城代を勤めた歴史上有名な人々であります、小川城の北、的場の地は家臣達の弓術の練習場でした」と記載されている。
また、すぐ近くある石川政康の墓所にも由来碑が設置されている。そこには政康は下野の国小山城に生まれ、35歳の1446年に三河に移ってきたと記されている。「小川城に住して真宗門徒のために尽くすこと、前後三十余年を数う。政康公は、四男康頼と相い図り、小川城の一廊に一宇を建立した。康頼は蓮如上人の弟子となり明了と称した。これが蓮泉寺開基である」。一説によると、蓮如が布教のために下野の国に行っていた時、政康に出会って一緒に三河に来て、蓮如は土呂郷(岡崎市)に本宗寺を建てたという。
三河一向一揆では、家康の家臣の大半が本願寺派に属していたため、岡崎方につくか、寺方につくか迷い、一族で二つに分かれて戦うことになった。石川一族でも、本證寺を守る連判状に最初に署名した清兼の後継者である家成や数正は岡崎城に立てこもり、康長の系統の広成などは寺側についたという(『桜井の歴史』参照)。このうち、家成は岡崎城家老となり、家康が城を浜松に移すと掛川城主となった。また、家成の後に岡崎城家老となった数正は豊臣方に走り、松本城主となって城下町を整備したという。
蓮泉寺裏にある石川政康の墓所 |
石川一族の菩提寺として建立された蓮泉寺 |