2022年7月25日月曜日

小川町の小川志茂城跡

 


 小川町志茂の本城公園の東側一帯は、かつて松平家(後の徳川家)に仕えた石川氏3代の居城だった小川志茂(しも)城の跡である。すぐ近くには大浜騒動主唱者の蓮泉寺・石川台嶺が火葬された場所に建てられた墓石「護法有志の墓」があるが、その隣には初代城主の石川政康の墓所もある。墓所の東側に立っている蓮泉寺は、四男の康頼を浄土真宗本願寺派の僧侶にして、真宗本願寺派拡大に協力した政康が石川家菩提寺として建立したもの。今は静かな住宅地の小川町志茂は、いろいろな歴史が重層したような地域といえる。

 小川志茂城跡の本城公園は名称に「城」の文字は入っているが、城の面影は全く感じられない普通の公園である。ただし、東屋の一角に「本城の由来」という石板がはめ込まれており、城跡だったことが分かるようになっている。その石板では、「本城公園の一帯は小川城の跡で、今から凡そ五百年の昔、石川政康が築城し、その子康長、春重の三代の居城となった所であります。石川氏の一族は代々松平氏(後の徳川家)に仕え、清兼、康正、家成、数正の諸将は岡崎城代を勤めた歴史上有名な人々であります、小川城の北、的場の地は家臣達の弓術の練習場でした」と記載されている。

由来の石板

 また、すぐ近くある石川政康の墓所にも由来碑が設置されている。そこには政康は下野の国小山城に生まれ、35歳の1446年に三河に移ってきたと記されている。「小川城に住して真宗門徒のために尽くすこと、前後三十余年を数う。政康公は、四男康頼と相い図り、小川城の一廊に一宇を建立した。康頼は蓮如上人の弟子となり明了と称した。これが蓮泉寺開基である」。一説によると、蓮如が布教のために下野の国に行っていた時、政康に出会って一緒に三河に来て、蓮如は土呂郷(岡崎市)に本宗寺を建てたという。

 三河一向一揆では、家康の家臣の大半が本願寺派に属していたため、岡崎方につくか、寺方につくか迷い、一族で二つに分かれて戦うことになった。石川一族でも、本證寺を守る連判状に最初に署名した清兼の後継者である家成や数正は岡崎城に立てこもり、康長の系統の広成などは寺側についたという(『桜井の歴史』参照)。このうち、家成は岡崎城家老となり、家康が城を浜松に移すと掛川城主となった。また、家成の後に岡崎城家老となった数正は豊臣方に走り、松本城主となって城下町を整備したという。

蓮泉寺裏にある石川政康の墓所
石川一族の菩提寺として建立された蓮泉寺












2022年7月22日金曜日

三河一向一揆の円光寺順正

 

 桜井町の円光寺は大きな鼓楼(ころう)が道路からも目に付く城郭寺院で、戦国期の住職順正は三河一向一揆で活躍したことで知られる。最後の決戦では総大将の本證寺住職・空誓(くうぜい)の身代わりになって自害し、本寺への忠死として讃えられた。その自害した場所は古代の円墳と言われる加美古墳の上で、そこに墓石が立っている。

 円光寺はもともとは天台宗の寺院だったが、応仁年間に真宗本願寺派に転宗した。西三河地方で同派が拡大したのは蓮如の時代からで、本證寺、岡崎市の上宮寺も蓮如が活躍した頃に真宗高田派から転宗している。円光寺は大きな鼓楼が印象的だが、現在はそれ以外に城郭寺院の雰囲気はない。しかし、郷土史『桜井の歴史』によると防火用水が掘られた時、堀の底らしい場所に室町時代の土器片が現れたため、堀を巡らせた城郭伽藍の形をとっていたとみられる。

右の道路沿いに鼓楼の立つ円光寺

 円光寺順正の墓は小川町の木に囲まれた高さ2mほどの円墳の加美古墳上にあるが、隣の加美地蔵尊の建物に隠れるようにして墓石は立っている。表には「安政院釈順正師墓碑銘」とあり、裏面には漢文で順正の業績が書かれている。同地から本證寺まで直線距離で1300mで、「当時は本證寺のイラカまで見通せたのではないか。目と鼻の先での戦いだったのである」(桜井の歴史)。

 石板によると、隣の加美地蔵尊は「もとは村はずれに立てて悪魔や疫病神が村に入るのをふせいでいた地蔵尊です。扁平な体、わずかに見える錫杖、幅広い足首など特徴ある表現がみられ、江戸時代初期をくだらないものとわかります」。古墳の上に悪魔、疫病神を防ぐ地蔵尊と順正の墓、不思議な雰囲気の場所となっている。

小川町にある加美古墳
古墳の上の加美地蔵尊、隣に順正の墓
順正の墓



2022年7月18日月曜日

安城市歴史博物館で一向一揆特別展計画

 安城市歴史博物館はNHK大河ドラマ「どうする家康」の放映に合わせて、来年2月4日から3月19日まで特別展「家康と一向一揆」を開催する予定で、現在史料調査など準備に入った。同館では年5回の展示行っているが、特別展は昨年1月に徳川家康の大河ドラマが発表されると共に決定したもので、大河ドラマに関連する展示は同館としては特例という。

 予告は安城市歴史博物館情報誌「れきしみち」125号で行っているもの。「三河一向一揆は、矢作川下流域の安城市、岡崎市、幸田町、西尾市で永禄6年から翌7年に起きた浄土真宗本願寺派(当時)の一揆とされています。ちまたでは、徳川家康の三大危機の一つに数えられています。未だ安定していない家康の領地内での戦いでに、これに勝利した家康は三河一国の支配を順調にすすめ、戦国大名の仲間入りを果たしました。一揆方の寺院は家康の領域内での禁教によって追放され、約20年後に赦されて戻ります。」

 特別展では、三河一向一揆だけにとどまらず、禁教時に追放された僧侶が各地の一向一揆に関わっていたこと、家康の関東移封によって始まる江戸と三河の真宗寺院の関係、慶長7年に家康が東本願寺の自立をさせた東西分派まで、約40年間を対象とする予定。そして、当時の本願寺派が家康とどのように関わっていったかを通史的に概観した展示としていきたいという。

2022年7月15日金曜日

「家康最大の試練~三河一向一揆」見る


  NHKのBSプレミアムで7月13日夜に放映された、徳川家康と三河一向宗一揆をテーマにした「英雄たちの選択」を見た。予告通り、愛知県安城市の城郭寺院として知られる本證寺が大きくフューチャーされた。しかし、一揆の拠点となった岡崎市に点在する他の一向宗寺院は地図だけの放映にとどまった。上宮寺などは現代的な建物に改築されており、唯一戦国期に面影を残している本證寺に焦点が当たったのは当然と言えるかもしれない。

 番組では外堀に囲まれた本證寺の寺内町は砦のようだった岡崎城の城下町より栄え、「不入の権」で外部からの権力行使を排除していたと説明。最後に家康に騙し討ちのような形で一揆に加わった一向宗(浄土真宗)の寺院は壊滅、一揆に加担した有力家臣は許して軍勢を整え、家康は天下統一に向かっていったということで終了した。放映時間の関係もあったかと思うが、その後、一向宗は家康の母親と姉妹で乳母も勤めた妙春尼の尽力で寺院は再建され、西三河地方に再び一大勢力を築いていった。この妙春尼の墓は上宮寺の境内にある。


 こういった状況について、和本『三河国門徒兵乱記』は次のように記している(郷土史『桜井の歴史』から)。
 「その後、20年を隔てて、1583年、石川日向守家成の御母堂の発案によって、家康公の側近たちの力添えもあり、一向宗門御制禁は解かれる。皆、それぞれ寺に帰り、しだいに一向宗を再興していった。そして、この家康公の御慈悲に対して、悦んだのだった。うわさによれば、石川家成の御袋(御母堂)のもとへ送られた御赦免状にはつぎのように書かれていたとのことである。『本願寺門徒の事、この度赦免するから、三河一国に、前々からあった道場は、まちがいのないようにせよ。そうであれば、このことは、聞きいれよう。以上 天正11年12月晦日 家康(御朱印)』」。石川家成の母親が妙春尼である。

放映時の本證寺はハスの花が散り始めていた
一部残っている外堀もハスに覆われている





2022年7月12日火曜日

「若き家康最大の試練~三河一向一揆」放映


 NHKのBSプレミアムでは毎週水曜日の午後8時、歴史を変える決断をした英雄たちを取り上げた「英雄たちの選択」を放映しているが、7月13日は徳川家康と三河一向宗一揆をテーマにする。タイトルは「家臣団分裂 !  若き家康最大の試練 ~三河一向一揆の衝撃~ 」で、磯田道史(国際日本文化センター教授)、杉浦友紀(NHKアナウンサー)が司会者として番組進行する。

 番組紹介では、桶狭間の合戦後、今川からの自立と三河統一を目指して戦いを続けていた若き徳川家康の前に、さらなる敵として現れたのが三河一円に勢力を張っていた一向宗だと説明。「まるで城郭のような堅固な寺院を拠点に、経済的にも軍事的にも圧倒的な力を持っていた。さらに有力家臣たちも一向宗側についてしまう。家臣団分裂という大ピンチを家康はいかに切り抜け、三河統一を果たすのか ?  最新研究と現地調査から描く。」

 予告動画には今も内堀が残る城郭寺院の安城市野寺町の本證寺が映し出され、裏の土塁が高かったことも説明されるようだ。また、外堀の中にどのような建物がたち、どのような経済活動が行われていたか、詳しく解説されることを期待したい。予告動画では内堀にハスの花は咲いていないので、撮影、取材はかなり以前に行われてたものとみられる。不入特権を侵害した一向一揆の発端となったとも言われ、今は現代的建物に改築されている岡崎市・上宮寺の昔の姿が描かれるか、こちらも個人的には注目している。

3月25日の本證寺
 6月28日朝の本證寺






 

2022年7月9日土曜日

郷土史「桜井の歴史」にみる大浜騒動

1982年に開かれた大浜騒動企画展ポスター
 
 1979年3月に発刊された郷土史『桜井の歴史』では、地域で騒動に加わった東本願寺派門徒が多かったことから明治維新の項目で大浜騒動を大きく取り上げている。同書は、桜井小・中学校の児童・生徒に向けて、小・中学校の職員が力を合わせて書いたものという。編集調査にあたっては、町の人の人々から多くの教示を得、児童・生徒の夏休みの研究を原稿作製の足がかりにしたものもあるとしている。

 『桜井の歴史』では、「維新期のこの地方にとって、最大の事件は1871年(明治4)春におこった」として、菊間藩事件とも呼ばれる大浜騒動の背景、経緯などを説明。「新政府にとって『神仏分離令』は成立したばかりの権威を人々に意識させる最大のものだった。また、信仰の上でも、経済的にも巨大な力を持つ東本願寺の勢力を分散させる必要があった。そうした中で、新政府の方針を一層徹底させようして廃仏政策をとった藩の一つが、菊間藩だった。一般農民のなかには御維新によって、もっと世の中がかわることを期待する面があった。それらを含めた不満が信仰問題と重なって爆発したのである。桜井には東本願寺派寺院が多く、その信者(門徒)がきわめて多かった。そのため事件は桜井を大きくまきこんだ」と記載している。

桜井の歴史から

  そして、事件の経過を知るため、1975年に中学生がまとめたレポートを掲載している。そのレポートを抜粋してみると-----。

 「(菊間藩大浜出張所の少参事)服部純は、寮内の寺院の住職を呼び出して、檀徒が50戸以下の寺院をなくしてしまうことを命令した。これを聞いた僧侶は、本山に相談したいという理由で、延期を願ったが、服部純は受け入れようとしなかった。」、「9日の夜明けごろに、命令の延期を願いに大浜へ出発する。途中の桜井村の方行寺についたときには、門徒がみの笠姿で数百人もついてきていた。また、龍讃寺についたころには、それが2、3千人にもたっしていて、竹やぶは竹がなくなってしまうほど切り倒されて、竹やりがつくられた。」、「この事件のために、石川台嶺は斬首刑になった。その日の夕焼けが、とても美しく、台嶺様が、極楽に往生された印だといわれている。今もこのときの衣が寺にのこっていて、去年私も見せてもらった。」、「この事件をとおして考えさせられたことは護法の名のもとにおきた騒動の大きさと、片方でよいことをしたように思える気持ちとの、矛盾だった。確かに、人を殺したりするのは大犯罪にちがいないが、私の心には犯罪という面よりも、仏教のために役人にたちむかっていった、英雄のように思えるのだ。」

 

2022年7月6日水曜日

本證寺のハス、赤い花も咲く


  三河一向一揆の拠点となった野寺町の本證寺は、梅雨明けが早まったことから内堀に植栽されているハスの花の開花も早まった。6月28日には山門に向かって右側の白い花がたくさん咲いていたが、1週間後の7月6日には左側の植えられている赤い花も数多く開いていた。ただし、前日まで3日間続いた雨天の中でピークを過ぎてしまったのか、ところどころで散ってしまった花も見られた。

 本證寺のハスは外来生物の影響で一時消滅していたが、地元の有志によって「本證寺ハスの会」が結成され、平成25年(2013)に内堀のハスの再生に成功したという。例年は7月に入ってからが見ごろと言われているが、今年は6月27日が梅雨明けとなり、内堀右手の白い花は翌28日の朝にはたくさん咲いた。この白い花は7月6日の午前中にはすでにピークを過ぎた様子で、6月末時点より花の数は少なくなっていた。しかし、6月末には見られなかった鼓楼横の内堀のハスの白い花も数は少ないながら咲いていた。

赤い花
ピークを過ぎた内堀の白い花

鼓楼を取り囲む内堀にハスの花
裏手のハスは花をほとんど咲かせていない

 なお、本證寺では7月10日の日曜日、午前9時から午後3時まで境内に出店などが並ぶ「ハスのマルシェ」を開催する。午後1時からはハス鉢即売会も行うという。

2022年7月5日火曜日

大浜騒動の石川台嶺

 

 西三河地方は浄土真宗大谷派が極めて隆盛な地域であり、大浜騒動の中心人物として逮捕、斬首された石川台嶺(いしかわ・たいれい、1843-1871年)も、安城市小川町の蓮泉寺に婿入りして政府の神道国教化政策に対抗した。刑は明治4年12月に執行されたが、その後真宗大谷派は大浜騒動を護法精神(仏教を守ろうとする思い)から起きた出来事と考え、台嶺の死を「殉教」と捉えた。明治20年に火葬された場所に墓碑が建てられ、さらに大正13年には西尾市葵町の処刑地に殉教記念碑が建立された。

西尾市にある殉教記念碑

 西尾市岩瀬文庫の特別展「三河大浜騒動150年」で配布された資料によると、石川台嶺は西尾市の順成寺で生まれ、25歳で蓮泉寺に婿入りした。明治2年、約200人と言われる会員で「三河護法会」を結成し、幹事となった(総監は高浜市専修坊住職・星川法沢)。三河護法会では、本山の講者や三河の学匠らを招いて内外の宗教、思想を学んだ。その中心となったのが岡崎の暮戸会所(現暮戸教会)で、ここで政府の神道国教化政策による寺院統廃合の動きに対して激論。明治4年3月2日に若手を中心に30余人が血誓をして大浜に向かい、大浜騒動となった。

 大浜騒動で実刑となった僧侶は32人で、門徒百姓も実刑となった。このうち29歳で斬首となった台嶺のほか、役人殺害の罪を被った安城市城ヶ入の榊原喜代七(門徒百姓)も絞首刑となった。また、準流刑10年の星川法沢は獄死、徒刑1半の安城市桜井の円光寺僧侶、安城市野寺の善證寺僧侶、あま市下ノ森の順正寺僧侶(台嶺の弟子)、安城市城ヶ入の城泉寺住職も牢死。安城市ではこのほか、赤松・本楽寺住職が徒刑3年、今村・専超寺住職が徒刑2年、里・西方寺住職と姫小川・誓願寺住職、根崎・宝林寺住職が徒刑1年半、榎前・信照寺住職が徒刑1年の刑を受けた。さらに、高棚・空臨寺住職、野寺・本證寺住職、東端・念空寺住職、小川・蓮泉寺住職(台嶺の養父)、寺領・松韻寺住職も糾弾された。(岩瀬文庫特別展図録から)

安城市小川の蓮泉寺
蓮泉寺裏にある護法有志の墓
榊原喜代七の墓がある城ヶ入・城泉寺

2022年7月1日金曜日

三河大浜騒動


  西尾市立図書館の隣にある古書ミュージアム「岩瀬文庫」は、5月14日から8月31日まで特別展「三河大浜騒動150年~近代化の光と影~」を開催している。前期と後期で展示を入れ替える計画で、前期は6月26日に終了し、後期は7月2日から開始した。また、7月2日には西尾市文化会館で「再考!三河大浜騒動から問われていること」をテーマに記念シンポジウムを開催した。

 明治4年(1871)、三河地方で起こった「大浜騒動」と呼ばれる事件とは何だったのか? 騒動の背景には、岡崎、安城、高浜、西尾など三河地方が浄土真宗の盛んな地域であったことが挙げられる。岩瀬文庫の特別展で配布された三河殉教記念会事務局(西尾市正念寺内)が作製した大浜騒動のリーフレットから概要をみてみた。

  <騒動の発端> 
 明治新政府は強固な天皇中心国家をつくるため、神道を「国教」にすることを目指し、宗教改革に着手した。大浜周辺を飛地支配している上総国菊間藩(千葉県市原市)は、新政府の方針を具体化するため神道儀礼の強要、寺院統廃合などの政策を打ち出し、実施に取りかかった。しかし、三河の浄土真宗門徒は「神道儀礼の強要」に反感を抱いた。また、耶蘇教(キリスト教)の進出に危機感や不安を抱く者も多かった。

  <騒動の経緯>
 明治4年2月15日、3月8日、岡崎の暮戸会所で三河護法会(三河の僧侶が学びを深める会)の僧侶100人以上が集まった。そこで菊間藩の打ち出した神道儀礼の強要、寺院統廃合などの宗教改革への対応を協議した。
 3月9日、石川台嶺をはじめ、菊間藩への直談判に立ち上がった僧侶30余人が暮戸を出発し、現在の役所にあたる大浜出張所に向かう。
 桜井の方行寺に立ち寄ると門徒農民が聞きつけ一向に加わり始めた。米津の龍讃寺で待機しているとデマも飛び交い、農民が付近の竹林の竹を切って高張り提灯や竹やりを作り始めた。台嶺はそれを静止し、菊間藩領の入り口、鷲塚へと向かった。
 鷲塚の池端蓮成寺ほか3寺に数千人の門徒農民が集まり、庄屋片山邸に出張してきた役人と台嶺らとの話し合いを待っていた。しかし、話し合いはまとまらず、いらだった門徒農民は暴徒化して片山邸を襲った。そして、逃げ遅れた役人藤岡薫を殺害してしまった。

  <騒動後>
 石川台嶺は騒動の責任を問われ、裁判の後、同年12月27日に現・西尾市葵町の獄舎で斬罪に処せられた。門徒の榊原喜代七も絞罪となり、その他約40人の僧侶・門徒が投獄された。その後、菊間藩や諸藩は神道儀礼の強要や寺院統配合の方針を撤回したが、政府は神道化の道を試行していった。
新潟県出身の田中長嶺「殉教絵詞」は背景、発生から結末までを描く

 
  なお、特別展は2階企画展示室で開催し、石川台嶺血染めの白衣、幽囚日記などを展示した。大半の展示物は撮影禁止となっているため、ここではビデオが流されていた1階市民ホールの壁面に掲げられていた展示物のみ取り上げた。


 






ららぽーと安城のテナント187店舗を先行発表

  三井不動産は安城市大東町に開発中の商業施設名を「三井ショッピングパーク ららぽーと安城」に決定、来年4月に開業すると発表。同時に、全テナント約210店舗中187店舗を先行して明らかにした。敷地面積は3万1900坪で、地上4階建ての店舗棟(3階までが店舗)と3棟の地上6階建て立...