2022年4月29日金曜日

北明治稲荷社

 

 中日新聞の折り込みタウン紙「安城ホームニュース」は同新聞の系列会社・中日総合サービスが月2回発行しているが、4月22日号にトップ記事として北明治稲荷社の鎮座180年祭が掲載された。同稲荷社はJR安城駅北口から徒歩6分の明治本町4丁目にあり、安倍晴明の母の葛葉(くずは=狐の化身)が住んでいたという言い伝えから「葛葉稲荷」とも呼ばれていた。鎮座180年祭では、拝殿と幣殿奥の覆殿に隠されている本殿が初めて特別公開された。

 稲荷社鎮座180年祭のあった4月24日には、午後2時から本殿を特別公開すると共に、神楽殿で地元の少女たちによる舞が披露され、参拝者に餅と菓子が振る舞われた。さらに、町内在住の彫塑家うえむらゆみこ氏が消しゴムはんこでデザインした御朱印を頒布、神社の由来、境内図などを記載した観音開き8ページのしおりも無料配布した。当日は生憎の雨模様の天候となったが、午後2時前に境内に長い行列ができるなど大きな賑わいとなった。行列に20分くらい並んで覆殿の中に置かれている本殿を見て、私がまず感じたのは「こんなに小さいのか」。

 しおりによると、稲荷社は天保13年(1842)、安城村領主の久永家が安城が原の開発許可を得た際に京都伏見稲荷より倉稲魂命(うかたのみたまのみこと)を勧請したことに始まる。明治14年(1881)に「明治稲荷社」の公称が認可され、同24年(1891)に東海道線によって地域が分断された以降は、地区名の北明治をつけて「北明治稲荷社」を呼称した。本殿は建築様式から勧請の時期より前、1700年代中期に建造されたものと推測され、他の地に存在していたものを本殿に利用したのではないかと言われている。

 境内面積は797坪。境内には社殿、社務所、神楽殿、秋葉社と津島社の境内末社のほか、伊勢神宮遥拝所、奥の院などもある。

鎮座180年祭
神楽殿の舞
本殿特別公開

正面に拝殿、右に手水舎
境内末社の秋葉社と津島社


2022年4月24日日曜日

安城市制施行70周年企画展「安城太郎満70歳」

 

 5月5日で安城市は市制施行70周年になる。これを記念して安城市歴史博物館では、4月9日から6月26日まで市制施行70周年記念企画展「安城太郎満70歳」を開催している。企画展では、擬人化した「安城太郎」の眼を通して、新聞やポスター、写真などの資料で安城市の移り変わりを紹介している。と言っても、歴史博物館1階の一部を使った小ぢんまりした展示会で、観覧無料、館内撮影自由となっている。ただし、撮影した写真画像はSNSでの使用不可という但し書きがあり、残念ながらこのブログでは掲載はできない。

 企画展の案内チラシによると、安城市の始まりは碧海台地に明治用水が通ったことで一大農業生産地となったのことと、東海道本線に安城駅が開業したことが発端。安城駅は農産物の集荷地となり、加えて農業関連施設や製紙工場が進出したことで市街地が形成され、碧海台地上で産業・経済の中心的な地位を獲得したという。昭和27年(1952)5月5日、愛知県で13番目の市として市政が施行された。当時の人口は約3万7千人、面積は39.95k㎡。「その後、3度の合併を経て面積は3.2倍となり、名古屋の衛星都市のという好立地もあって、世帯や人口も増加の一途をたどり、市の財政も大幅に拡大した」。

  農業以外の産業として、企画展パンフレットによると戦前から繊維産業が盛んで、1951年には倉敷紡績安城工場が設立、1955年には第3工場が完成し綿紡織業で全国最大の工場となった。このほか、モーター製造の牧田電機(現マキタ)が工場疎開を兼ねて1945年に移転。1960年の工場誘致条例を機に自動車部品製造の豊臣機工、ミシンや編機製造の愛知工業(現アイシン)安城工場、井上護謨工業(現イノアック)などが進出してきたという。

 また、高度成長期には大型スーパーの進出も相次ぎ、1973年7月に市役所前にダイエーがオープンした。このほか、西川屋安城センター(のちのユニー駅前店)、新安城プラザ(現アンディ)、サンテラス安城ができ、この4店舗で市内小売販売額の23%になると言われた。ただし、ダイエー(1993年にトポスに転換)は1998年、ユニー駅前店は2003年、サンテラスは2015年にそれぞれ閉店。1996年に開業した西友を中核としたザ・モール安城も2020年に閉店し、イトーヨーカドーのある新安城駅前、アピタ南安城のある桜井町以外は大型商業施設の空白地域となっている。

安城市市制60周年のパンフレットから

安城市の人口、世帯数の推移

会場に掲示の「安城市の統計」に基づいた表をアレンジ、1996年から2009年は省略




2022年4月21日木曜日

不乗森神社


 里町の旧鎌倉街道沿いにある不乗森(のらずのもり)神社は、狛犬の替わりに2匹の猿が拝殿前に鎮座する。同社ではこの猿を「神猿=マサル」として、“勝る”、何よりも美しいものを内蔵した正義の象徴として伝えてきているという。安城市内の神社としては珍しくウェブサイトを開設しており、神猿の由来と意義について説明し、「八幡様は鳩、春日様は鹿、熊野様は鴉、当社は猿、共に神様の御使として古くから大切にされてきました」と記述。境内には、「見ざる」「言わざる」「聞かざる」の三体の猿の石像も設置している。

 旧郷社の不乗森神社は、ウェブサイトによると、冷泉天皇の安和年間(968-970)に近江国坂本の日吉大社から祭神・大山咋神(おおやまくひのかみ)の分霊を勧請したと伝わる。境内北を鎌倉街道が通り、通行時に馬に乗る人は下馬した上で拝礼したことから、「駄野森(のらぬのもり)」とも言われていたが、明治維新で不乗森神社になった。また、庶民はもとより武将の崇敬も厚く、領主水野右衛門忠政などの献納した物も神宝として保存されている。

 境内の面積は3千630坪。本殿、拝殿の前に神楽殿があり、末社の神明社、東日吉社、厳島社、秋葉社、山神社、津島社、稲荷社が並び、さらに天満社の小さな祠、安産祈願の子安石、幸福釜も。また、白壁の洋館のような社務所、神社横手の幹線道路沿いに二、三十台停められる広い駐車場も設置されている。土曜にはちらほら家族連れやアベックの姿もあり、旧郷社だけあって地域住民だけではなく、遠方からの参拝客もいると見られる。ちなみに、令和4年3月現在の里町の世帯数は3千941世帯。

















神猿の石像

2022年4月18日月曜日

根崎八幡神社

 

 神社として最も多いのは八幡神社や八幡宮、若宮神社など八幡信仰に関わる神社で、宗教学者島田裕巳氏によるとに全国に7千817社もあるという。明治航空基地の滑走路が走っていた根崎町の根崎八幡神社もその一つで、誉田別命(ほむたわけのみこと=応神天皇)を祭神として、東京・富岡八幡宮の分霊を祀っている。令和4年3月時点で731世帯と東端町より一回り小さい根崎町の旧村社であり、境内には津島社、秋葉社、稲荷社、さらに護国社も並んでいる。

 本殿は平成27年1月に市指定有形文化財建造物に指定、文化財解説板も設置されている。それによると、神社の起源は寛永15年(1638)に津島牛頭天王社の分霊を現境内北の山中に小さな祠を建てて祀ったことに始まり、元禄7年(1694)に領主だった松平正基の江戸居所の近くにあった深川八幡(現富岡八幡宮)の分霊を境内内に祀り、津島社も境内に移して根崎村鎮守社・八幡宮としたといわれている。本殿は一間社流造、柿葺(こけらぶき)の建物で、覆殿の中に納められている。建立は寛保4年(1744)ごろで一間社流造の本殿としては市内最古のもの。

 境内の面積は1千36坪。公民館・町内会前に鳥居が設けられ、そこから民家の間を通って伸びる舗装された参道の先に境内はある。社殿は傷みが激しかったことから平成19年に造営委員会を設立、本殿改修、覆殿、幣殿、拝殿の建て替え工事に着手、その後、稲荷社、社務所も再建した(平成21年11月の記念碑に記述)。1992年発刊の愛知県神社名鑑によると氏子数は430戸。

町内会の入る公民館前に鳥居と参道

平成21年に建て替えられた拝殿

護国社
津島社






2022年4月13日水曜日

東端八剱神社


 東端公園に接する旧村社の東端八劔神社は、平安時代末期の創建と伝えられている。長年にわたって村の氏神として敬われるだけではなく、太平洋戦争中に明治航空基地ができたことから兵士の守り神としても敬われた。また、近くを流れる長田川左岸の台地にある東端貝塚が境内にまで広がってきており、油ヶ淵が海だった時代の環境を表している貝が見つかっている。

 日本武尊を祭神とする八劔神社は安元元年(1175)または治承4年(1180)の創立とされている。境内にある市の看板によると、江戸時代中期に二社併立の社殿を新築し、向かって右側に八劔社、左側に若宮八幡を祀ったと伝えられている。本殿は覆殿の中に収められているが、二間社流造、柿葺(こけらぶき)の建物で、正面が二間となる神社本殿は全国的にも類例の少ない貴重なもの。一般的に覆殿は本殿の四周に柱を立て、その上に屋根を被せただけの簡素な建物が多いが、この覆殿は規模が大きく装飾的で、本格的な社寺建築の様式を有している。本殿及び覆殿は平成24年12月から同26年4月にかけて修理工事が実施された。

 境内の面積は約3千465坪で、末社として天王社、源太夫社、秋葉社が並んでいる。このうち源太夫社は乎止与命(おとよのみこと)を祭神に「知恵の文殊」として知られている熱田神宮の摂社(昭和24年に熱田神宮内に遷座)で、同神社から東端に奉祀された。天王社は建速須佐乃男命(たてはやすさのおのみこと)が祭神で津島市の津島神社(津島牛頭天王社)から奉祀したもので、天王社、天白社、八面社、巌島社を合祀して天王社になったという。社殿修理工事では境内に神楽殿、大幟倉庫なども新築した。

 令和4年3月時点の東端町の世帯数は1227。油ヶ淵に接する安城市の東端にあり、鉄道もなく、商業施設も少ない田園地域が広がっている。このため、東端公園は平日の昼間でも親子連れが遊んでいるが、その隣の八劔神社には人影はない。もちろん、社殿横の社務所も無人。

覆殿の中
                         に本殿
末社の天王社、源太夫社

拝殿と社務所(左)
入口に貝塚







2022年4月10日日曜日

明治航空基地平面図

 


 安城市がまだ誕生していない太平洋戦争中、明治航空基地は旧碧海郡明治村に海軍の基地として昭和18年4月から建設が始まり、翌19年9月に第二一〇(ふたいちまる)海軍航空隊が開隊した。東端町、根崎町、和泉町にまたがる約200haを使って約6本の滑走路が造られたというが、安城市の遺跡・史跡紹介ウェブサイトではその基地の平面図のPDFを公開している。
 滑走路はコンクリート造りのほか、地面を叩いて固めただけのところもあった。滑走路南西部の格納庫に隣接する建物群は基地本部のあった木造の兵舎で、昭和60年まで明祥中学校の校舎として使用されていたという(現在は鉄筋コンクリート造り)。戦後、滑走路など基地は関係者に払い下げられ、現在は田畑や道路、住宅に変わっている。

2022年4月7日木曜日

明治航空基地


  安城市内にかつて飛行場があった。第2次大戦中に急きょ造られ、戦後すぐ関係者に払い下げられて大半が農地に戻されたたため、知っている市民は少ないと思う。油ヶ淵の東側、東端町、根崎町、和泉町にまたがる地域(旧碧海郡)に建設されたもので、名称は「明治航空基地」。東端町の東端公園には終戦50周年を記念して明治航空基地之碑が建てられ、上の写真のような基地の再現図も石板に刻まれている。

 市教育委員会作成の歴史の散歩道パンフレットによると、明治航空基地は海軍の基地として昭和18年4月に地元民や学生を動員して建設が始まり、翌年5月から未完成のまま使用され始めた。面積は200haで、最終的には6本の滑走路が造られ、最大時で航空機217機、隊員総数4千78人が所属していたという。昭和20年3月に全国の飛行隊は鹿児島県内の基地に集結、沖縄近海の米艦船への攻撃を開始したが、大半の航空機を失った。6-7月になると、基地は米航空隊の空襲を受けるようになったが、本土決戦に備えて迎撃には参加せず、機体を掩体壕(えんたいごう)に隠し、隊員は防空壕に避難する状態が続き、終戦を迎えた。

 現在、残存している基地関係の施設は、燃弾庫(ねんだんこ)、弾薬庫、防空壕、非常用発電施設、油蒸留場跡。基地本部のあった木造兵舎は東端町・明祥中学校の校舎として昭和60年まで使用され、その後取り壊された。燃弾庫はドラム缶に入った航空機用燃料や弾薬を空襲から守るための施設で、その一つは東端町の老人ホーム敷地内に残されている。また、同じ東端町にある弾薬庫の一つは、屋根を付けて現在も倉庫として利用されている。非常用発電装置はアーチ型ドーム形状で、内部は奥行14m、幅5m、高さ4mあり、空爆に耐える頑丈なつくりとなっているが、現在は中に入ることができない。

東端公園の明治航空基地之碑









老人ホーム内の燃弾庫
畑の中にある燃弾庫
農地と住宅に挟まれたレンガ造りの弾薬庫













レンガ造りの油蒸留場跡

根崎町から東端町にかけて4本の滑走路があった


2022年4月4日月曜日

櫻井神社

 


 宗教学者島田裕巳氏によると、明治4年に神社が「国家の宗祀」と位置付けられ、官費を支給する官社と諸社に分けられた。さらに諸社は府県社、郷社、村社に分けられ、府県、市、村などが経済的援助を行い、終戦まで神社信仰を国民道徳として強要するようになっていった。桜井町の櫻井神社は安城市で唯一の旧県社で、徳川家康の祖父の松平清康が武運長久を祈願した三河三白山の一社でもある。三間社流造、切妻造の本殿は市指定有形文化財建造物で、室町時代の神社建築様式をとどめているという。

 また、櫻井神社は桜井古墳群を構成する比蘇山(ひそやま)古墳の墳丘上に本殿が建っている。しかし、同古墳についての案内板はどこにもない。すでに古墳全体がかなり削られているので、全体の大きさもはっきり分からなくなっているようだ。すぐ北にある二子古墳は全長68mの前方後円墳で、かつて墳頂に天神社が祀られていた。同神社は大正3年に櫻井神社に合祀され、その後社殿は境内社の御鍬社として移築された(平成27年に解体)。

 市教育委員会の看板によると、櫻井神社の由来は平安時代以前にさかのぼり、伝承では古墳時代に第11代垂仁(すいにん)天皇の娘が行幸されたことを受けて、井戸を掘り、その傍らに小祠を建てたことが創始という説がある。平安・鎌倉時代には「桜井天神」、室町時代には「神明社」や「白山社」、江戸時代には「桜井権現」と呼ばれ、明治時代になってから櫻井神社の呼称が使われた。一向一揆の際に徳川家康が戦勝を祈願し、叶えられたことから、江戸時代初期に徳川家から社領の寄進を受けた。大正3年(1914)、桜井七ヶ村にあった神社すべてが神社合祀令によって合祀され、現在の櫻井神社になったという。昭和5年に社殿を造営、郷社から県社に昇格した。

 境内は約3千947坪(北の二子古墳851坪含)と非常に広い。長く伸びる参道の黒松並木は市の天然記念物。祭神は伊弉諾神(いざなぎのかみ)、伊弉冉神(いざなみのかみ)、菊理媛神(くくりひめのかみ)、菅原道真、火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)、火産霊神(ほむすびのかみ)、応神天皇(おうじんてんのう)、八幡大神(はちまんのおおかみ)、天照大神(あまてらすおおみかみ)、倭姫尊(やまとひめのみこと)。境内末社として弁財天社、稲荷社があり、稲荷社の隣には薬師堂も設置されている。この薬師堂は、櫻井神社の本地仏として立像と共に安置されていたという市内最古の木像である薬師如来坐像が納められている。

 境内に掲示されている資料で氏子数は千800戸と報告。桜井町は3千世帯強の世帯数があり、それから考えると町内会の住民世帯をすべて氏子としている旧村社と比べて微妙な数と言える。旧県社と言っても参拝者は桜井町以外にはそれほど広がっていないようだ。もちろん、通常時は社務所は無人状態で、ほとんど境内に人の姿はない。


 古墳上に建つ社殿
境内社の弁財天
境内社隣にある薬師堂
















黒松の参道

2022年4月2日土曜日

御朱印集めに対応する安城の神社は ?



 3月中旬、学研プラス〈地球の歩き方御朱印シリーズ〉として『御朱印でめぐる愛知の神社』が発刊された。愛知県の神社約3千300社の中から、「御利益と御朱印が凄い」と評判の高いという神社100社をフルカラーで紹介している。最も多いのは37社の名古屋市で、次で岡崎市7社、豊橋市6社、一宮市、犬山市、知多市の5社、豊川市、豊田市の4社などとなっている。
 安城市で紹介されているのは安城神社の境内社として昭和35年に創建された安城七夕神社だけで、宗教法人として独立運営されている神社は一切取り上げられていない。しかも、安城七夕神社は8月初旬の七夕まつり開催期間中と「期間限定or不定期で頂ける御朱印」として紹介。安城市内の神社の大多数を占める旧村社や明治川神社、大岡白山神社など旧郷社では、祭日、神事以外は宮司といった神職が不在で、境内の社務所は無人状態となっており、当然御朱印を授与するところはほとんど皆無と言える。
 『御朱印でめぐる愛知の神社』では、安城七夕神社を日本で唯一「七夕」の名を持つ神社として紹介。「七夕まつり中は、ハート短冊に願いごとをしたため、参道の笹に結びます。幻想的な『竹灯籠』『願いごとキャンドル』はSNS映えバツグンで、恋愛運も気分も上がります!」と記載している。
 ちなみに、隣の岡崎市で掲載されている神社は、伊賀八幡宮、岩津天満宮、上地八幡宮、岡崎天満宮、菅生神社、龍城神社、八幡宮。同じく隣の豊田市では足助八幡宮、挙母神社、猿投神社、八幡神社松平東照宮、刈谷市では市原稲荷神社、高浜市では春日神社、知立市では知立神社、碧南市では中山神明社、西尾市では伊文神社、久麻久神社、諏訪神社が取り上げられている。
安城神社境内にある安城七夕神社


 

ららぽーと安城のテナント187店舗を先行発表

  三井不動産は安城市大東町に開発中の商業施設名を「三井ショッピングパーク ららぽーと安城」に決定、来年4月に開業すると発表。同時に、全テナント約210店舗中187店舗を先行して明らかにした。敷地面積は3万1900坪で、地上4階建ての店舗棟(3階までが店舗)と3棟の地上6階建て立...