2022年12月30日金曜日

ブログ『安城市の不思議』の2022年ベスト3


 
 2月23日に立ち上げたブログ『安城市の不思議』の1年間を振り返って、閲覧数ベスト20をまとめてみた。と言っても自分で集計したわけではなく、Googleブログ作成サービス「ブロガー」の統計情報の自動集計データをそのまま使った。12月30日現在の総閲覧数は4579とまだ少ないが、7月と9月を除いて右肩上がりで増加、12月は初めて月間閲覧数が600を超えた。

 自動集計データによると、閲覧数トップは8月11日に投稿した「『ららぽーと安城』開発状況?」。閲覧数は275と投稿では唯一200台となり、ららぽーと開発への関心は極めて高いようだ。その投稿では、市議会だよりで商業施設ザ・モール跡地の開発について出店計画は三井不動産から詳細な情報は得ていないが、前施設の解体完了は令和5年6月末と記載と説明。中日新聞ウェブの報道では「開発計画は十万五千平方メートルで、ザ・モール安城店の六万平方メートルを上回る。店舗棟1棟、別棟1棟、立体駐車場3棟を予定と市の発表を説明」と書いた。

8月時点のザ・モール跡地
12月にはザ・モールの建物が全て撤去

 8月時点ではまだザ・モールの建物群は残っていたが、その後じょじょに壊されて、12月には一つもなくなっていた。工事現場は白いフェンスに覆われているので、道路からではどういう状況になっているかわからないが、トラックの出入り口から覗き込むと工事用機械しか見えず、建物はすべて撤去されていた。今後、隣接する紡績工場の建物群をどこまで壊していくのか、計画図が公表されていないのでよく分からない。いずれにしても、計画面積がザ・モールの敷地より1.75倍広いので紡績工場の方の敷地も使うはずである。

 第2位は12月2日に投稿した「三河安城駅前にアイシンアリーナ(仮称)」で、閲覧数は140で100台に乗っている。「アイシンはJR三河安城駅前の安城工場を移転、跡地にアリーナ機能を備えた多目的交流拠点を設置すると発表した。11月26日付の中日新聞朝刊に掲載されたもので、プロバスケットボールチーム『シーホース三河』のホームアリーナとして使用するほか、様々なスポーツイベントやコンベンションなどにも活用していく。新幹線三河安城駅は降りたことがない駅ランキング(乗りものニュース)で1位を獲得、駅前には商店街もなく人通りも少ない」という内容。第1位のららぽーとも同じだが、市内の大型開発計画には関心が高い。

 第3位は11月18日に投稿した「こんなにもある安城市内の新宗教教団施設3」で、第2位とはかなり離れているが閲覧数は58。「こんなにもある安城市内の新宗教教団施設」は連続して5回投稿したが、最も閲覧数の多かったのが「3」。天理教の福釜町にある安城分教会と、御幸本町の花ノ木分教会に取り上げた。閲覧数41の「1」では立正佼成会安城教会、崇教真光安城お浄め所、世界真光文明教団安城センターを取り上げた。






 

 

2022年12月27日火曜日

GHQが禁止の町内会は安城市では1962年に復活

  町内会は地域のまとまりのため日中戦争以降に整備されたもので、1940年9月に内務省訓令によって村に部落会、町に町内会をつくり、その下に隣組を置くことが決定した。戦後、GHQが軍国主義的な制度の末端行政事務を担う機関として活動を禁止、存続を図る内務省との対立もあったが、1947年4月に廃止された。しかし、その後も形を変えて生き残り、1952年のサンフランシスコ講和条約締結によって町内会廃止令が解除され、地域組織として町内会は復活した。「万民翼賛」を図る隣組は1組10人程度でつくられ、回覧板と常会を通じて日々の生活に関わったという(国立公文書館のアジア歴史資料センター)。回覧板を使った情報伝達など、現在活動する安城市内の町内会の組・班と、戦前の町内会の隣組とあまり変わっていない気もする。

 2018年発刊の『新編安城市史』の第4巻通史編現代には、町内会廃止令に伴って「住民組合」と名称を変えて活動を続け、1962年4月に町内会が正式に復活する経緯について詳述している。戦後発足した住民組合については、「民主主義を基本として組織され、町内会廃止令後、旧町内会を単位として組織された。しかし、今まで通り戦前の町内会の範囲と住民が基本的な構成であり、その下部組織として、これも戦前からの組が基本的な形であった」(通史編現代、第2章地域の論理・第2節住民組合の運営)と書いている。民主主義を基本とするため組合の加入・脱退は自由で、強制加入だった戦前の町内会とは違った。

 市内の町村合併が進んだ1958年、住民組合制度に関する答申が行われた。特に問題となったのは、「地域ぐるみ」の体質を持つ農村部の住民組合。「固定化した役員によって封建的な相互関係を形成して、選挙その他重要な問題に対しては組合が主導権を握り、ますます地域根性を強化させている」。工場誘致で増加した勤労者からは、「従来の住民組合の非民主的運営と強制的な住民組合費の徴収が過重負担であるなど二重行政撤廃を市へ要求している」現状が示された。1962年2月、市長が62年度重点政策として住民組合制度改善を取り上げ、1)住民組合を廃して町内会とすること 2)消防署の充実と消防分団の統合整理で税外負担の解消 3)市役所の合理化、事務機械の導入で余剰人員を適正配置して住民組合の委託事務軽減などを挙げた。

 この時に住民組合の問題点となっていたのは、1) 事務量の増加により経済的余裕のある者に役員が限定され、運営の合理化や改善意欲が沈滞、農村部の持つ封建性温存のために地方自治の民主化を停滞させている 2) 組合費の徴収に受益者負担の原則が比較的軽視されている 3) 地域根性の強化が住民組合間の対立をあおり、市事業も総花的になって重点施策が事実上不能となっている 4) 市議会議員の住民組合の推薦がなければ当選が困難である 5) 法定外の地元負担金・寄付金などの規定は地域不均衡を生じるとともに、一方的な立替工事の実施を増大させ、民主制度を悪用した圧力団体に変じてこの支出を要求し、市財政計画を破綻させる原因となっている。それら課題については、住民組合が持つ根強い封建制と慣習と共に、安城市が「住民の便宜という美名にかくれて、必要以上に住民組合を利用したことが最大の原因」としている。

 しかし、その後財政再建が4年度間のところ61年度で終了、「住民組合の改革手順は徹底して行われることなく、根本的な問題の解消をせずに、いわゆる高度経済成長期の好景気の中に放置されていったのである」。特に農村部の町内会は封建性を温存した体制が現在も残っている。町内会費と別に同額かそれ以上の組費(ブロック費)の徴収を行なっているところもあり、移転してきた住民が戸惑うようだ。また、市議会議員については住民組合の問題点が今も解消されておらず、町内会の推薦がないと現役議員でも出馬できないような状況が出ている。


2022年12月24日土曜日

旧産業組合施設にある東尾町内会

 

 大正時代、農村経済の発展のため産業組合が全国で組織され、昭和7年には安城地域で26組合を数えたという。安城村の東組合だった東尾地区の産業組合は、大正6年に安城東尾信用販売購買組合として発足、戦後の改革で東尾農業協同組合となった(昭和38年に合併で安城市農業協同組合の支所に)。産業組合の関連施設は農業倉庫、事務所、共同利用工場の三つの建物から成り、最も古いのは事務所で大正13年の建造という。いずれも現在使われており、特に事務所は東尾町内会事務所、東尾公民館として日常的に活用されている。

 安城市ウエブサイトでは歴史的建造物の紹介ページがあり、市内の産業組合について説明、残存している旧産業組合関連施設を紹介している。説明文によると、各産業組合は事務所、農業倉庫などを建設し、組合員に物品の共同購買・販売事業や預貯金・融資といった信用事業などを行っていた。戦時体制下では政府が食料統制のために制定した米殻配給統制法の統治機関として、米の集荷・配給の役割を担った。農業倉庫は米殻の保管・販売業務と検査を行うために設置されたもので、貯蔵室が2または3室連結された規格性の高い建物。かつては各町内のほとんどに建てられていたが、今では数えるほどしか残っていない。

木造平屋建て瓦葺き土蔵造りの農業倉庫

木造平屋建て瓦葺きの旧共同利用工場

 旧東尾産業組合の農業倉庫は5間×5間(1間=1.818m)の大きさの貯蔵室2室からなる土蔵形式で、倉庫の東側には下屋庇をさしかけて2間の前室を設けている。昭和10年に建造されたが、三河地震で損傷したため27年に修理を行っているという。中日新聞では2020年12月に「三河名建築」シリーズで同農業倉庫を掲載。現在、祭礼のしめ縄用に使う麦わらを保管しているが、老朽化が進んでいるのでどう保存するかが課題と東尾町内会役員のコメントを取り上げている。

 倉庫の反対側には旧共同利用工場があり、その南側に木造二階建ての旧事務所がある。旧共同利用工場は精米・脱穀・肥料の粉砕などの作業や集荷・荷造りなど共同で行う作業をするための施設で、現在は床を張って町内会集会場として利用されている。事務所はもともと道路沿いに建っていたが、昭和54年に東に曳いて現在の場所に移動したという。このように組合事務所、農業倉庫、共同利用工場の全ての建物が現存しているのは東尾だけと、安城市ではウェブサイトで説明している。

木造2階建て瓦葺き、寄棟造の事務所

 なお、安城町の東側が東尾町内会、西側が西尾町内会の区域だが、字名の前に東尾や西尾の名称は入っていないので、地図を見ても境界がはっきり分からない。安城城址のある安城町城堀、その北の同拝木よりも東側が東尾町内会の区域だが、城堀の八幡社は東尾の氏神神社であり、周辺は東尾に入るという。また、拝木の中には東尾町内会に入っているところもあり、境界線がきちんと引かれているわけではないようだ。

 

 

   

2022年12月21日水曜日

知立市に法華宗系新宗教の法公会総本山

 

 知立神社から徒歩数分の国道155号線沿いにコンクリート造りで瓦葺きの巨大な和風本殿と、金色の相輪が突き出た仏舎利塔が目を引く広い敷地の新宗教施設がある。ここは昭和48年5月に設立されたという宗教法人法公会総本山で、設立が新しいためか今まで一度も聞いたことがなかった教団名だが、入り口の案内板で教義は「釈迦本懐の法華経を根本」としている。創価学会、霊友会、立正佼成会などと同様、日蓮信仰、法華信仰を核とした新宗教のようだ。

 施設の敷地面積は2104坪。案内板によると敷地内の建造物は、本殿(2階建て)、聖仏舎利宝塔、教祖殿、鐘楼堂、萬霊供養塔、護摩堂、水子地蔵、水屋で構成。塀に囲まれた敷地には広い駐車場も設置されている。聖仏舎利宝塔には、「釈尊御真骨の仏舎利を奉祀し、1階には一般各位の御先祖をお祀りする納骨堂がある」という。宮殿風の白い塔に金色の相輪、外観はインド仏教様式の建物で、隣の日本様式の本殿と対照的なつくりとなっている。

広大な敷地には本殿を中心に様々な建物が並ぶ

入り口にある案内板と鐘楼

 先日、新宗教研究所の著書『新宗教ガイドブック』(平成10年3月発行)をヤフーオークションで安く入手したが、全国99教団が掲載されている同書に法公会の名前はなかった。愛知県ローカルの教団で、まだ全国的な知名度を獲得していないかもしれない。新日本宗教団体連合会のウエブページを見ると、法公会も加盟教団として紹介されている。西尾市出身の榊原法公が創始者で、大乗教の宣教師、教会長を経て、1973年に法公会を立教し、1977年に知立の本殿を完成したという。現在の代表者は榊原光徳会長。

 ちなみに、新宗教ガイドブックによると大乗教は昭和23年に設立された法華宗系の新宗教で、本部は名古屋市熱田区にある。愛知県に傘下教会を多数展開しており、西三河地区にも岡崎、刈谷、西尾、豊田に教会を構えている。





 

2022年12月18日日曜日

金光教の三河刈谷教会は民家のような建物

 

 幕末に誕生して、戦前は教派神道の一つとして公認された金光(こんこう)教は岡山県浅口市金光町に本拠地を構え、関西を中心に勢力を伸ばしてきたという。同じ神道系の天理教に比べると三河地区に教団施設は目立たず、安城市内には1カ所もない。Googleで検索すると、三河刈谷教会、西尾教会、岡崎教会、額田教会、豊田教会が見つかった。このうち、三河刈谷教会は亀城公園近くの刈谷市城町図書館のすぐ南側に広がる住宅街の一角にある。

 宗教学者島田裕巳の著書『新宗教驚異の集金力』では、金光教について次のように記載している。「本部もそれぞれの教会も独立採算制をとり、それぞれの場所で信者が行った献金はそこに入金される。一部、各教会が本部に納めている金もないわけではないが、それほどの額にはなっていない。(省略)献金型のビジネスモデルを採用した場合、教団が急速に発展していくときには多額の金が入ってくる」。別の著書『日本の新宗教』では戦前に伸びた金光教の信者数は1950年以降に減少に転じたと指摘、「新宗教は第2次大戦後に教勢を大きく伸ばしていくが、金光教はその波にまったく乗れなかったことになる」と書いている。

住宅街の生活道路沿いにある三河刈谷教会

 三河刈谷教会は生活道路沿いに住宅が並ぶ一角にあり、正面入り口の上に八波(やつなみ)に円に金の紋が付いていなければ民家と間違えそうな木造の建物である。ただし、屋根の妻側を正面に向けた強い正面性を持つ金光教建築の特徴は伺える。隣の住宅がくっ付いているので、教会隣は関係者の住まいかもしれない。駐車スペースも建物の前にしかないので、信徒数はそれほど多くはないと個人的には感じた。

2022年12月16日金曜日

巨大勢力の天理教愛町分教会は名古屋が本拠地

 

 天理教の教会は日本だけではなく海外にもあり、その数は1万6千余に及ぶという。教会には本部直属の大教会と分教会に分かれるが、名古屋市には大教会を凌ぐほどの規模の大きい分教会がある。地下鉄吹上駅の東にある愛町分教会で、巨大な門を構えた神殿の周りの敷地には信者会館、ようぼく修練場、立体駐車場の建物が建ち並んでいる。さらに愛町分教会は名古屋の本拠地だけでなく、愛知県を中心に50カ所に布教所を展開し、半田市には「愛町マーチングバンド」という愛称の全国的に知られる吹奏楽団も持っている。

 愛町分教会は、霊能力を持つ天理教の大カリスマとして知られた関根豊松(1881-1969)が創始者。「規模からすれば他の多くの大教会をはるかにしのぐのであるが、関根豊松が大教会となることを希望しなかったので、名称は分教会である。その規模はとても大きく、天理教の教団内の独立教団と言ってもいいくらいである。関根豊松は分派の意志は全くなかったが、もし分派していれば、天理教有数の大分派教団になっていただろう」(愛知学院大学熊田一雄宗教文化学科準教授の原稿「天理教の男性カリスマの薄化粧をめぐって」から)。

愛町分教会の神殿を囲む長い塀
前面に人工芝を敷き詰めた信徒会館
信徒会館前にある立体駐車場

 神殿は幹線道路沿いに城壁のような屋根瓦をのせた塀が長く延び、中央に鳥居に似た巨大な門が設置、その横には梅鉢の紋章入りの提灯が吊るされている。塀の中の神殿は平成28年から30年にかけて屋根の葺き替え・改修工事が行われ、建物全体を覆う仮設屋根「素屋根」が設置された。「神殿は築60年を超える歴史のある建物ですが、美しく蘇った神殿を信者さんのもとに無事お返しすることができました」(鹿島建設中部支店)。

 神殿隣の敷地にある前面に人工芝を敷き詰めた3階建て信者会館は、信者が宿泊できるようになっている施設のようで、マンションのように部屋が区切られている。横の建物には食堂も設置されているようだ。また、神殿北の敷地にあるコの字状の巨大なビルはGoogleマップに「用木修練場」と記載されている。ようぼくは、「陽気ぐらし世界建設のための人材・用材のことで、親神様のお話を聞いて、おさづけの理を戴き、ようぼくとなることができます」(天理教婦人会のウエブページ)。信徒たちの修行する場所のようであり、建築設計関係企業のウエブページで畳敷きに広間の写真を見ることができる。

神殿北側の敷地にあるようぼく修練場

横の通りから見た神殿
横の通りから見たようぼく修練場

 なお、愛町分教会は三河地区では刈谷市に愛刈町布教所、碧南市に愛五布教所、岡崎市に愛豊町布教所、豊橋市に愛千布教所を展開。知多地区の半田市には愛清布教所と、愛町ブラスバンドが練習するための体育館「修練所」も持っている。

 

 



2022年12月10日土曜日

こんなにある安城市内の新宗教教団施設5

 

 神道系の天理教は戦前、新宗教の中で最も規模の大きい教団だったが、戦後に創価学会の台頭によって陰が薄くなった。それでも現在も創価学会に次ぐ勢力を持ち、本部直属の大教会と下部組織の分教会で構成される教会は全国に1万以上ある。西三河にも分教会がたくさん存在し、安城市には福釜町の安城分教会と御幸本町の花ノ木分教会と2つあることをすでにレポートした(こんなにある安城市内の新宗教教団施設3)。さらにもう一つ、Googleで六ツ美分教会という教団施設も検索できたことにも触れたが、この施設の存在を現地に行って確認した。

 天理教六ツ美分教会は名鉄米津駅から1.6キロほど東に行った、鹿乗川の南にある藤井町西山という小さな集落にある。この畑に囲まれた小さな集落の一角、瓦葺きの入母屋木造住宅に天理教のマークが付いている。どう見ても民家であるが、玄関横に掲示してある文字のほとんど擦り切れた木の板と白壁に付いているマークで、ここが天理教の分教会ということがなんとなく分かる。家の前には数台の車が停められる駐車場がある。

 天理教の分教会は独立採算制で自前運営していく必要があるという。「設立当初は信者数も資金もないため会長の自宅が神殿を兼ねる。その後、信者数が増加し、自宅に入りきらなくなると、資金的な余裕も出て、信者の寄進を募り、敷地を購入し、独立した教会を建設する。その際、信者が土地を献納したり、大工の信者が建築を行う。しかし、さらに信者が増えると、より広い土地を求めて移転したり、周囲の敷地を買う。これを繰り返す」と五十嵐太郎著『新偏新宗教と巨大建築』は記述。同書は地方教会の外観について、「入母屋の屋根の妻側に入母屋の玄関をつけたものだ。正面性を強調する善光寺型の屋根といえよう」と書いている。

民家のような建物の六ツ美分教会

いかにも天理教らしい造りの玄関

 分教会の「六ツ美」の名称はかつて矢作川の東側にあった碧海郡六ツ美村(町)から取ったものと考えられる。同村は岡崎市に吸収合併されているようだが、岡崎市からかなり離れ、西尾市に接する藤井町西山地区は安城市に編入されたかもしれない。

 この六ツ美分教会はもちろん、花ノ木分教会、ちょっと規模の大きい安城分教会も、民家と間違えそうな建物の造りだが、 すぐ隣の高浜市芳川町に位置する高浜分教会は木造の重厚な造りの建物である。敷地の奥には広い駐車場も備えていることから、信者数が安城市の3分教会よりも相当多いのではないかと想像される。 

壮麗な入母屋造りの高浜分教会








2022年12月7日水曜日

ソロキャンプ場がある刈谷ミササガパーク


  ソロキャンプが注目を集めているが、手軽にソロキャンプやバーベキューが楽しめるデイキャンプ場を備えた公園が刈谷市にある。それが猿渡川すぐ南の半城戸西町にあるミササガパーク。デイキャンプ施設の利用時間は午前9時から日没までで、使用利用無料、予約も不要(場所取り禁止)と、誰でも手軽に利用できるようになっている。

 ミササガパークは猿渡公園(さわたりこうえん)が正式名称だが、姉妹都市であるカナダのミササガ市との友好提携20周年を記念して2001年に整備された。刈谷市によると、人と人の触れ合いを基本とした「森・草原・花」という整備テーマで、公園の中央部に草原の広場(野芝)を配置し、北西部の外周には針葉常緑樹・広葉常緑樹などを中心に植栽、また休憩所、トイレなどの施設をログハウス調にしており、全体がミササギ市をイメージできるような公園になっている。原寸大のカヌーに乗った熊の立体アート作品も設置されているが、これはカナダ人アーティストの制作したもので、ミササガ市から寄贈されたという。

中央が野芝広場のミササガパーク

カナダから寄贈されたカヌーと熊のアート

 デイキャンプ場は北西部の常緑樹が植栽されているエリアにあり、野外卓(最大10人利用可)が10カ所に設置されている。野外卓はかまどはないがバーベキューにも利用でき、エリア内には屋根付きの共同炊事場が設置。平日にはバーベキューをしている家族や集団はいなかったが、テントを張って1人でキャンプを楽しんでいる男性はいた。遠方のキャンプ場に行かなくても、市街地に近い刈谷市内で手軽にソロキャンプが楽しめることを初めて知った。また、日常的にミササガパークをデイキャンプ場として利用している人がいることも認識した。

野外卓や共同炊事場も設置のデイキャンプ場

北米が原産地のアメリカフウも

 カナダのミササガ市は「City of Mississauga 」と英語では書き、日本では「ミシサガ」が一般的な表記となっているようだ。オンタリオ州南部、トロントの西隣に位置する。刈谷市によると、オンタリオ湖の湖畔にあって、カナダで6番目に大きい都市で、ミササガという言葉は「沢山の河口を持った川」という意味があるという。

2022年12月5日月曜日

ポスター「三河安城で定刻以上に滞在」


 安城市は昨年10月、「三河安城で定刻以上に滞在」のポスターを新幹線三河安城駅に掲示した。そして、ツイッターに「『この電車は三河安城駅を定刻通りに通過しました』。このアナウンスで名古屋駅がもうすぐだと認識するお客さん、多いですよね。でも、三河安城駅は『定刻通りに通り過ぎるだけ』の駅じゃありません !! 定刻を過ぎても滞在したい駅に変身中」と書き込んだ。この自虐的なPR作戦が功を奏したのか、その後、日刊紙に三河安城駅が次々と取り上げられ、今年7月にはメ~テレの朝の情報番組(ドデスカ!)で放映された。
 
 この「三河安城で定刻以上に滞在」のポスターはもう外されているものと思っていたが、新幹線三河安城駅に行ってみたら改札口前の柱にまだ張られていた。昨年10月のツイッターでは「ポスターをホームに掲示して新幹線の乗降客に猛烈PRします」と書いているが、現在でもホームにもポスターがあるかどうかは分からない。もし現在も掲示されているとしても、こだまに乗っている時は通過を知らせるアナウンスはないので、利用客にとっては意味不明のポスターかもしれない。

歩道の非常に広い三河安城駅

カフェが開店したが隣はテナント募集中の改札前

駅前に市内の観光地を紹介するパネル

 5月19日付の日経新聞デジタル版では、アナウンスについて「名古屋駅まで約10分になったタイミングで流れる。JR東海によると、直前の停車駅から間隔が空いているため注意喚起するのが目的で、いつ始まったかは不明という。三河安城駅は地元の要望でできた駅で、開業を機に市が周辺の区画整理事業を進めた。ただ駅周辺に飲食店は少なく、全国的に有名な観光地もない。市関係者が『降りたことはないが、車内放送で多くの人が知っている謎の駅だ』と自嘲気味に話すように、どう人を呼び込むのが課題となっている」と記載している。

 メ~テレの7月20日付「ドデスカ!」ウェブでは、新幹線の「影が薄い駅」、「降りたことのない駅」ランキング(乗りものニュース)で三河安城駅がダブルで1位になったと紹介。「実際に行ってみると、人影はまばら。市民も、(ランキングに)ショックだけど納得」として、「定刻通り通過」のフレーズを逆手に取ったポスターが鉄道ファンを中心に人気になっていると報道している。ちなみに、新幹線の降りたことがない駅ランキングの2位は新富士、3位は岐阜羽島。

在来線の駅はちょっと離れた場所に


  
 


2022年12月2日金曜日

三河安城駅前にアイシンアリーナ(仮称)


  トヨタ自動車グループのアイシン(本社刈谷市)は、JR三河安城駅前の安城工場を移転、跡地にアリーナ機能を備えた多目的交流拠点を設置すると発表した。11月26日付の中日新聞朝刊に掲載されたもので、プロバスケットボールチーム「シーホース三河」のホームアリーナとして使用するほか、様々なスポーツイベントやコンベンションなどにも活用していく。新幹線三河安城駅は降りたことがない駅ランキング(乗りものニュース)で1位を獲得、駅前には商店街もなく人通りも少ないが、アイシンアリーナができれば駅前が一変する可能性が出てきた。

 スポーツ庁のホームページには、令和3年度スタジアム・アリーナ先進事例成果物として、アイシン多目的交流拠点(仮称、シーホース三河)のPDFがアップされている。その事例紹介では、「行政や地域コミュニティ、地域企業との理解を深めアリーナによる新たなまちづくりを推進したい」として、次の事業ビジョンを挙げている。1)スポーツ=シーホース三河の新たなホーム、様々な国際・公式大会での使用、一日中楽しめるスポーツ観戦・様々な夢を実現。2)街づくり=安城市「都市再生整備計画」と連携、西三河の交流を促進させる拠点、マチナカウォーカブル推進事業と連携した動線形成。3)鉄道と幹線道路が隣接、公園などとの有機的に連携、周辺住宅地へ高質な住民サービスの提供に貢献。(上のイラストもPDFに掲載)

新幹線三河安城駅近くのアイシン安城工場

商店のほとんどない三河安城駅周辺

 PDFによると多目的交流拠点の開業時期は2026年秋。コロナ感染症の影響で計画が中断していたが、今年4月に計画を再スタートした。メーンアリーナは客席規模5000人以上で、サブアリーナにはバスケットコートとシーホースのクラブハウスを併設。また、20人収容の会議室10室(可動間仕切り)、300人収容のクラブラウンジなどを設ける。このほか、周辺で増加しているオフィスワーカーを対象とした物販計画(ランチ需要、帰宅時の飲食需要)も策定していく。

 アイシン安城工場の移転先は、国道23号線に接する整備中の榎前工業団地。中日新聞によると新工場は2023年に着工、24年度中の稼働を目指している。工業団地内に約10万平方メートルの用地を取得しているといい、家庭用燃料電池や温水洗浄便器などを製造する計画。

アイシン安城工場移転先の榎前工業団地整備地



ららぽーと安城のテナント187店舗を先行発表

  三井不動産は安城市大東町に開発中の商業施設名を「三井ショッピングパーク ららぽーと安城」に決定、来年4月に開業すると発表。同時に、全テナント約210店舗中187店舗を先行して明らかにした。敷地面積は3万1900坪で、地上4階建ての店舗棟(3階までが店舗)と3棟の地上6階建て立...