2022年3月31日木曜日

姫小川古墳・浅間神社

 安城市南東部の鹿乗川周辺に桜井古墳群があるが、その一つである姫小川町の姫小川古墳は碧海大地の端に位置する国指定史跡の前方後円墳。同古墳は何と浅間(せんげん)神社の境内にあり、神社の社殿は高さ9mの後円部に設置されている。静岡県、山梨県を中心に散在する浅間神社の祭神は富士山を神格化したという浅間権現(浅間大神)で、古墳上に社殿を設けた姫小川町の浅間神社は霊山信仰の拠点のような雰囲気も醸し出している。宗教学者島田裕巳氏によると浅間権現は山の神・大山津見神(おおやまつみのかみ)の娘の木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)と同一視されており、同神社でも祭神を木花咲耶姫命と記載している。

 姫小川古墳は古墳時代前期(およそ4世紀)の前方後円墳で、墳丘長は65mほどあると史跡説明板に記載。「浅間神社のある後円部は、非常に高く造られています。一方、碧海台地を利用した前方部は低く細長いのが特徴になります。後円部の北東側から南西側にかけて幅10m、深さ2mの周溝がめぐっていました。桜井町の二子古墳とともに、三河における古墳時代の始まりを考える上でとても重要な史跡です」。すぐ近くには、高さ4mの姫塚古墳(市指定)、地下に横穴を掘った姫地下拡(同)もある。

 浅間神社由緒板によると、重要港として繁栄の地であった同地に孝徳天皇の皇女が多数の従者を伴って上陸して永住、その後皇女が葬られた陵墓を皇塚として地名を姫乃郷と改めた。後世になって木花咲耶姫命を勧請、安産の守護神として崇敬してきたという。昭和2年10月、内務省から神殿境内地を史跡名勝天然記念物にされた。また、愛知県神社名鑑によると、明治5年に村社に列し、17年に拝殿を改築、昭和12年に社務所を新築、境内地を拡張して指定社となる。20年に三河地震によって本殿が倒壊したが、27年に造営復興した。

 境内の面積は869坪で、古墳下には昭和50年に新築の薬師堂も設置されている。かつて浅間神社の本地仏として薬師如来を合祀、その後古墳の前方部に建っていた薬師堂が改築移転されたもの。本地仏とは、神の正体とされる仏を指し、日本の神は仏が仮の姿で現れたとする「本地垂迹(ほんちすいじゃく)」の考え方によるもの。「本地仏は神ごと、神社ごとに定められ、そうした仏を社殿内や境内の仏堂に祀るようになった」(米澤貴紀『神社の解剖図鑑』)。

          社殿は階段の上










社殿への脇道もある

薬師堂
左手に社務所、鳥居奥に社殿階段
すぐ近くの姫塚古墳












2022年3月28日月曜日

大岡白山神社

 安城市の北東部、岡崎市と接する大岡町に鎮座する大岡白山神社の木造平家建て流造の本殿は安城市最古の建物で、平成19年に市指定建造物になった。しかし、古いだけに風雨による建物の傷みはかなり激しい。中日新聞では「みかわの名建築」シリーズで取り上げ、「建物は、柱がもろくなり、屋根裏などの見えない部分の損傷も心配される。改修費には6千万円以上が必要となる見込みだ。神社の氏子は165世帯で負担は難しい」と記載、大岡町内会会長のコメントも載っている。大岡白山神社は旧郷社であるが、町内会全住民を氏子としている高棚神明神社、福釜神明神社などの旧村社とは違って崇敬者だけを氏子としているためか、極端に氏子数が少ないようだ。

 入り口にある市教育委員会の指定建造物説明書によると、大岡白山神社は養老2年(718)の創建と伝えられ、はじめ大岡明神と称していた。天文2年(1533)、徳川家康の祖父である松平清康が社殿を造営したが、天文9年に織田軍の兵火によって焼失、その後、永禄10年(1567)に家康により再建された。本殿は桁行(けたゆき)三間、梁間(はりま)二間の三間社流造で、昭和11年ごろに檜皮葺(ひわだぶき)から銅板葺に変更された。当初は国造の椎根津彦(しいねつひこ)を祀っていたが、1570年代に白山媛神(菊理媛尊=くくりひめのみこと?)と地主神の大岡忌寸(いみき)を合祀、三河三白山の一つに数えられたという。

 境内の面積は1千862坪。本殿、幣殿、拝殿、社務所のほか、秋葉社、山神社、天神社、地主社、若宮社、八幡社、愛宕社、稲荷社、熊野社、須佐男社といった境内社がずらり並ぶ。さらに入り口左手の小さな池の真ん中には朱塗りの鳥居が設置され、その奥に市杵島社の祠も祀られている。また、拝殿の前には神域を囲む朱塗りの神門があり、中にはうっそうとした檜の森も広がっている。この檜の森は古木の大樹が伊勢湾台風で倒伏したことから、昭和36年に檜800本が植樹されて年々成長してきたもの。檜の森の横の民家のような木造の社務所には祭日以外に人の気配がなく、訪れる参拝者もごくたまにしかいないようで、まさに深閑とした森の中にあるような境内、神域となっている。 






拝殿の前に神門


 拝殿
安城最古の建物
檜の森
社務所
池の中に境内社




 なお、宗教学者の島田裕巳氏によると、白山信仰は石川、福井、岐阜の三県にまたがってそびえる白山に関連した信仰で、拠点は石川県白山市の白山比咩(しろやまひめ)神社。同神社はかつて白山本宮と呼ばれ、神社というより寺院とみなされていた。通称の「白山権現」は、祭神の白山比咩大神のことも指しているという。また、白山比咩大神は菊理媛尊であるとも言われる。日本の神は何と複雑なのか、真に理解している人がどれだけいるか疑問だ。


2022年3月25日金曜日

明治川神社


 戦国時代の武将や明治時代以降の軍人など、神社では昔から人を神として祀る慣習があったという。旧東海道沿いにある明治川神社はその一つ。武将や軍人ではなく、矢作川から取水する大規模農業用水・明治用水開削の貢献者を守護神として祀っている。神社の創建は明治18年(1885)4月1日で、以前は水神社だった(市教育委員会パンフ『歴史の散歩道』から)。現在は水に縁の深い神と共に、明治用水開さく関係者の都築弥厚、伊豫田与八郎、岡本兵松、西沢真蔵の4人が合祀されている。
 当初からの祭神は大水上祖神(みくまりのおやのかみ)、水分神(みくまりのかみ)、高龗神(たかおかみのかみ)。「七十余年の歳月を経た明治13年(1880)4月、用水路竣工の式と祝賀の宴が盛大に挙行された。その時の一同の歓喜と感激とがここに結集して神社を創建することとなった。用水の欠缺をかこち農村の疲弊に泣いたのが用水路の開通によって一大飛躍を見るに至ったので、水に由縁の深い神、三柱を同年12月現今の境内地に勧請し奉った。その後明治17年社号を明治川神社とし、翌4月に無格社として認可を得、同年10月に本社が落成した。明治42年に無各社より郷社に列格された」と入り口の社記板にある。大正4年に都築弥厚が合祀され、昭和17年に伊豫田与八郎、同26年に岡本兵松がそれぞれ合祀されたという。
 境内の坪数は3千572坪と広く、境内北側の旧東海道沿いの鳥居までは長い参道が伸びている。背の高い木々に囲まれた中央には明治用水の流れを引き入れた池があり、「蓑笠を着けて田植えをしている姿」をイメージしたモニュメントが設置。真ん中には傾斜の急な太鼓橋もかかっている。太鼓橋正面に風格のある神明造りの本殿があり、左横には末社の伊佐雄(いさを)神社が設置され、干拓された上倉池などの明治用水関連の功労者を祀っている。
 旧郷社だけあって崇敬者数は約1万2千人と旧村社と桁が違う。しかし、本殿の右横にはある大きな社務所は旧村社同様に祭日以外無人で、横のトイレもかなり汚れている。また、明治用水を管理する組織の明治用水土地改良区と関係が深いためか、明治用水を利用する安城市内の農家では町内会を通じて同神社大麻を毎年入手している世帯もいる。


池と奥の社殿

風格ある社殿

 社殿前の















境内の末社

旧東海道沿いの鳥居


2022年3月23日水曜日

榎前八剱神社

 

 榎前町の東のはずれ、傾斜地の農林公園に沿って長い参道が伸びる榎前八剱神社は榎、黒松、楠木、杉、銀杏、ソメイヨシノなど多種類の樹木が生い茂る林の中にある。すぐ隣には公民館、町内会という公共の建物があり、まさに通常期は無人の旧村社が町内会によって実質的に運営されている姿が現れている。

 市教育委員会作成のパンフ『歴史の散歩道』によると、榎前八剱神社は正徳2年(1712)の神社帳に載せられており、それ以前から祀られていたと考えられるという。明治6年(1873)の神社取調帳には祭神が日本武尊と記載され、不明となっていた祭神が初めて明記された。神社由緒板では、「創立年月日詳ナラズ古老ノ伝ニヨレバ日本武尊(やまとたけるのみこと)東夷征伐ニ向ウ道スガラ榎ノ大木ノ傍ニテ御休憩ナサレシ為人呼ンデ榎前ト称スルト共ニ小祠ヲ建テ祭神トシテ崇敬ス」とある。愛知県神社名鑑にもある同一文面の由緒は伝説の類のようだ。

 境内末社として、水神社、御鍬社、天神社、津島社、秋葉社、稲荷社と、戦没者の霊を祀った護国社の7社が並んでいる。このうち水神社は無格社として別の場所にあったが、明治42年に八剱神社に合祀された。同神社は美しい乙女の姿をしている水の神、罔象女命(みずはのめ)を祭神としている。

 1997年に改築された社殿
水神社  
護国社(右)と稲荷社
公民館と町内会の建物







 

2022年3月20日日曜日

山崎神明社

 

 安城市の東部には安祥城址を中心に戦国時代の城址、古戦場、墓碑などが散在している。山崎城址もその一つだが、現在、同城址は山崎神明社の境内となっており、北側には幅13m、深さ2mの堀が50mほど残っている。この堀に接する土塁の上に神明社の本殿、拝殿、社務所が並ぶなど、まさに戦国時代の歴史が肌で感じられるような神社である。同時に、正面入り口から拝殿に続く参道沿いに公民館、老人憩いの家と兼用の山崎町内会の建物があり、運営母体が町内会という旧村社が大半の中で、一歩進めて町内会と一体化した形態の旧村社とも言える。

 安城市教育委員会の史跡説明の表示板によると、山崎城は戦国時代の典型的な方形城館で、もとは「岡の城」、「大岡城」と呼ばれていた。天文12年(1543)に、織田氏と密接な関係にあった松平信孝が今川方の岡崎城からの攻撃に備えて築城、同17年に松平信孝が戦死したため、城主不在となり、同18年に安城合戦に今川氏が勝利すると廃城となった。その後、小牧・長久手の戦いの後、羽柴勢との緊張関係の中で、徳川勢が改修工事をしたという説もある。

 神明社の祭神は天照大神、奥津日子命(おきつひこのみこと)、奥津比売命(おきつひめのみこと)。入り口の社誌板によると、「気候変化と地盤沈下に伴う海進と後退を経て舌状大地にして寥々なる農漁村たり茲に奥津日子命、奥津比売命を祀りしもその年代詳ならず」。愛知県神社名鑑によると、神社の創建は天文年中(1532-54)。城を築いた松平信孝が祠に祈り、城の守護神として崇敬したという。信孝戦死後は荒廃し、「神域も狭隘なりしを以て本城跡に遷座す。明治17年秋 社殿を修理し天照大神を合祀し神明社と称す。同23年 拝殿を設ける」(社誌)。その後、祭器庫を新築し境内地を拡大。昭和16年に村社に列格し、共進指定社となる。ちなみに、奥津日子命、奥津比売命は台所の「かまど神」として知られる。

堀が残る城址 









 





広い境内  

境内に公民館も入る山崎町内会









堀に接する本殿

2022年3月17日木曜日

箕輪・神明神社

 箕輪・神明神社は、永禄12年(1569年)4月に創建されたと伝えられ、450余年の歴史を誇る。由緒略記の石板によると、「福釜城主松平氏代々敬厚し、明治5年に村社に列格し、同40年10月指定社となり、現在神社本庁所属」。「本殿は1847年の建立にして今から150年前に造営され、拝殿は三河地震で倒壊し戦後いち早く再建され、55年を経過した。そのためいずれの建物も老朽化が甚だしく、全面的な造営が決定され、箕輪町内外700余戸の浄財壱億八阡万円で完成することができました」(平成13年5月記、一部省略)。 

 境内面積は1,435.56坪。境内には総檜神明造りの本殿、拝殿、社務所のほか、倉稲魂神(うかのみたまのみこと)を祭神とする稲荷社と青木社、大山祇神(おおやまつみのかみ)を祭神とする山神社、猿田彦神(さるだひこのかみ)を祭神とする社口社、市杵島姫(いちきしまひめ)を祭神とする弁天社、火乃迦具土神(ひのかぐつちのかみ)を祭神とする秋葉社の境内末社が並んでいる。また、境内の一角には滑り台などの遊具が設置され、子供の遊び場ともなっている。

 住宅地のはずれにあり、高い常緑樹に囲まれた非常に静かな場所といえる。高棚神明神社、福釜神明神社同様、常駐の神職はいないので、箕輪町内会が実質的に神社を運営しているものとみられる。

平成13年に造営された拝殿

弁天社
稲荷社





2022年3月15日火曜日

福釜町・神明神社

 



 安城市教育委員会の『歴史の散歩道』では、福釜・神明神社は永正13年(1516年)に松平親盛(ちかもり)によって創建されたとしている。この松平親盛は初代福釜城主で、近くにある宝泉院そばの松平墓地には、初代、2代、3代の松平・福釜城主の墓が五輪塔形式で並んでいる。高棚・神明神社に比べると規模は小さいが、なかなか歴史のある神社と言える。神社に保存されている相撲土俵4本柱は、江戸時代の勧進相撲の土俵上で組み立てられる櫓(やぐら)で、全国的にも貴重なものという。

 愛知県神社名鑑によると、境内の敷地は1千125坪。境内社として御鍬(おくわ)神社、若宮八幡社があり、それぞれ明和4年(1767年)、天文9年(1540年)の創立で、文化元年(1804年)に同神社に移った。現在の社殿は傷みがひどかったことから、1990年に建て替えられた。
 神社は町内会の各組持ち回りの総代4人、宮係(各組から1人選出)で運営。常駐の神職はいないので、実質的には高棚・神明神社同様に町内会が神社運営を支えていることになる。通常期は社務所などは無人状態で、周りには駐車場もなく、ほとんど訪れる参拝者はいない。

まだ新しい拝殿

境内社の御鍬神社





2022年3月11日金曜日

高棚町・神明神社と町内会

 高棚町の神明神社は安城市高棚町中敷164番地にある宗教法人で、都道府県知事所轄単位宗教法人に分類されている。所轄は愛知県庁で、愛知県知事の認証を経て法人格を取得している。法務局によって法人番号を指定された宗教法人情報を提供している「Japanese Religions」サイトによると、国税庁によって法人番号は交付されているが、なぜか代表者名、電話番号、メールアドレスなどはまだ登録されていないという。

 この神明神社には常駐している神主など神職はいない。戦後のGHQの神道指令によって村社ではなくなっているが、その村に代わって運営しているのが住民自治組織の高棚町内会である。役員には神明神社の氏子総代、神社係、宮係、神社余興委員、芦池神社(飛地境内社の神明社)の宮係が設けられ、ブロック費(東・西・南・北と新池の5ブロック)で年間2000円の氏子奉賛金を徴収している。町内会員は約1150戸であり、ざっと230万円を町内会から神社の運営費に充てていることになる。もちろん、これだけではない。伊勢神宮と高棚神明神社の大麻販売も町内会を通じて行っており、いずれも9割くらいの世帯が購入しているとみられ、200万円近くの金額になる(伊勢神宮大麻は1000円のうち半分が神社本庁からキックバックか)と推測される。新年初穂料、賽銭などもあるが、まさに町内会が全面的に神社運営を支えている。

 平成144月の佐賀県鳥栖市の自治会神社関係費訴訟では、自治会・町内会の神社への支出(氏子会費)は、宗教上の行為への参加を強制するもので、民法の趣旨に照らして違法な行為であるという判決が出ている。訴えていたのは浄土真宗本願寺派の信者夫婦で、同宗の開祖である親鸞は「神祇不拝」と神道の神々を拝むことを遠ざけているという。新潟市中央区では自治会・町内会Q&Aで、「氏子会費の集め方はこれまでの慣習で取り組んでいる面がありますが、会員から疑義の声が上がるようでしたら、総会や役員会で話し合ってください。集め方も自治会・町内会費とは別に、会計を設けて氏子で管理し、個別に会費を徴収するなど、地域の実情に応じた一番良い方法について話し合って下さい」としている。やはり、氏子組織をきちんと確立、町内会ではなく同組織が神明神社を運営していかなくてはいけない。そうでなければ日本憲法にうたわれている信教の自由を守ることはできない。宗教上の信念から神道とは相容れない住民もかなりいるはずである。

 

  

2022年3月8日火曜日

高棚町・神明神社

 

 
 神明神社は、伊勢神宮を総本社として天照大神を祀る神社である。島田裕巳著『なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか』によると、神明社、神明宮、皇大神社など伊勢神宮関係の神社は全国に4千425社あり、八幡信仰関係の神社に次いで多いという。安城市内でも福釜町、高棚町、箕輪町の3カ所に神明神社、西別所町、東別所町、山崎町、石井町、小川町の5カ所に神明社、さらに宇頭茶屋町に内外神明社、河野町に神明宮と、伊勢神宮関係の神社は全部で10社もある。

 これら10社のうち旧郷社である小川町の神明社(小河天神社合殿)を除くと、旧指定村社の高棚町・神明神社は最大規模と言える。境内の面積は1千750坪で、225坪の飛地境内社の芦池神社や秋葉社2社も持つ。愛知県神社名鑑によると、桓武天皇の延暦年中(782-806)に村内に鎮座し、文保2年(1318)に今の社地に遷座、明治5年に村社に列し、同40年10月に指定社となったという。記述では現地に創建されたのは鎌倉時代と歴史のある神社と言えるが、当時水源の乏しい地域だけに村も小さいはずで、神社も祠がある程度ではなかったかと思われる。

 現在では森と一体化したような緑に囲まれた広い境内には、二つの鳥居、拝殿、中殿、本殿、社務所、詰所、さらに神楽殿、秋葉社、津島社など境内社6社が並び、道路側には巨大な戦没者慰霊碑も設けられている。しかし、周りの地域の神社同様に神主など神職は常駐しておらず、通常は社務所は無人で境内は閑散とした雰囲気。もちろん、参拝者もほとんどいない。

 神社のすぐ隣には、明治用水開削の測量に携わった石川喜平の功績を後世に残すため整備された喜平公園がある。
狛犬と拝殿
奥の社務所
並ぶ境内社








2022年3月5日土曜日

高棚町の秋葉社

 

高棚・神明神社の飛地境内社の秋葉社
飛地境内社の秋葉社は少し小さな別の一社も

 秋葉社、秋葉神社は全国各地に点在し、神社本庁傘下宗教法人としては約400社、小規模な境内社などを含めると1千社以上あると言われる。ウィキペディアによると、祭神は神仏習合の火除け・火伏せの神として信仰されている秋葉大権現で、小さな祠が多く、一つの町内に何箇所も設置されている場合があるという。
 安城市高棚町には神明神社の飛地境内社が2社あり、さらに境内にも秋葉社の祠が3カ所に設置されている。飛地境内社の一つは薬師寺、高棚文化会館と道路を挟んだ隣接地にあり、敷地は65坪とかなり広い。祠の隣にある詰所前にはなぜか狸の焼き物が置いてある。もう一つの秋葉社は小学校近くの交差点角にあり、敷地の広さは約36坪。もちろん、狸の焼き物は置いていない。
 島田裕巳著『なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか』によると、「秋葉権現を祀る秋葉信仰は、もともとは修験道系の信仰だったが、江戸時代に入ると、火災を防ぐ火伏せの神としての信仰を集めるようになる。中心は、静岡県浜松市にある秋葉山本宮秋葉神社である」。

高棚文化会館隣接地の秋葉社
薬師寺と文化会館








小学校近くの秋葉社


ららぽーと安城のテナント187店舗を先行発表

  三井不動産は安城市大東町に開発中の商業施設名を「三井ショッピングパーク ららぽーと安城」に決定、来年4月に開業すると発表。同時に、全テナント約210店舗中187店舗を先行して明らかにした。敷地面積は3万1900坪で、地上4階建ての店舗棟(3階までが店舗)と3棟の地上6階建て立...