2022年9月30日金曜日

東映『徳川家康』の主舞台は三河


  9月18日に行われた傳兵衛クラブ刈谷主宰・前刈谷市川口孝嗣副市長の講演会で、東映時代劇の最後を飾る映画『徳川家康』があるのを知った。刈谷城主の娘・於大が岡崎に嫁ぐところから桶狭間の戦いまでの家康前半生を描いた作品で、同前副市長によると連続して家康の一生を描く予定だったが、時代劇からヤクザ映画に路線変更があり、一作で終わってしまったとか。Amazonを見るとDVDの取り扱いはなく、レンタルのプライムビデオ作品しかなかったので、普通画質のレンタル版を借りて見た。放映時間は144分とかなり長い。

 監督は伊藤大輔。今川、織田の人質となって流転の運命を歩んだ家康の前半生を、中村錦之助、有馬稲子、北大路欣也、田村高広などで描いている。「岡崎の弱小城主、松平広忠は、敵対していた水野忠政から和睦の印としてその娘・於大を嫁にもらい、やがて2人の間に竹千代が誕生する。その2年後、忠政の死後、水野家当主となった信元が織田方につき、松平は今川方についていたため、広忠と於大は離縁することに。於大は織田方の別の家に嫁がされ、竹千代は今川家、そして途中からは織田方の人質に」(今は放映していないWOWOWの解説から)。主役の中村錦之助は織田信長で、子供時代が大半の家康役の北大路欣也は出番が少ない。

 刈谷市の刈谷城址の北東に「椎の木屋敷跡」があるが、ここは於大が松平広忠に離縁されて刈谷に戻された時、一時住んでいたという場所。庭園のように整備された一角には於大像も設置されている。しかし、映画では離縁された於大は刈谷に立ち寄ることなく、織田家で阿久比の久松俊勝に紹介され、そのまま再婚してしまう。川口前副市長は残念がっていたが、於大の椎の木屋敷暮らしは映画でバッサリ省略されている。

刈谷市の椎の木屋敷跡
於大像

 広報あんじょう10月号に「家康と安城城」の連載コラムがあるが、ここで竹千代が人質として今川方に向かう途中で襲われて、織田方の人質になる歴史が書かれている。このあと、今川義元は松平軍を従えて安城城を攻めて奪還(第3次安城合戦)、城代の織田信広(信長の兄)を生け捕りにした。竹千代は信広と人質交換され、岡崎城への帰還を果たすことになった。これらストーリーは映画でも描かれ、岡崎城内は何度も出てくるが、安城城での戦闘場面はない。


 

2022年9月27日火曜日

榎前町のひまわり畑がようやく開花


  榎前町の長田川沿いに「ひまわりの里」という看板を掲げた畑があり、車で隣の道をたびに本当にひまわり畑か疑問の感じていた。7月になっても、8月になっても咲く気配がなかった。しかし、9月26日に現地に行ったら、この畑と道路を挟んだ隣の畑に植えられているひまわりが満開となっていた。特に長田川沿いの畑はぎっしり黄色い花が並び、壮観な眺めとなっている。近くには「ひまわり広場」と大きく看板を掲げた運動場があり、まさに名前に相応しい地区になった。

 ひまわりの里の畑は、一般廃棄物処理場跡地の土壌改良を目的に、榎前町内会がブロックローテーションでれんげ、麦、ひまわりなど植えているもの(ちょっと古い町内会資料なので現在でもれんげ、麦を植えているかは不明)。ひまわりは時期をややずらして毎年秋に花が開くように種をまいており、今年も9月中旬に黄色い花を咲かせた。ひまわりの里の看板は、2カ月前には確かにあったが、今回訪れたら台風のせいか枠組しか残っていなかった。れんげは毎年4月に花を咲かせるという。
種をまいていない場所もある広いひまわり畑

午後、車道から見た畑の後ろ向きひまわり

運動場側の畑はひまわりが少ない
 昨年9月16日付中日新聞ウェブニュースではひまわりの里を取り上げた。「計1.1ヘクタールに約10万本が植わり、10日以降、順に花を咲かせている」とし、次のように記載している。「15日朝にも、訪れた人たちがカメラやスマホを構え、“映える”一枚を狙っていた。夏の終わりに咲くよう、7月22、23日に種をまいた。8月中旬に雨が続いた影響などで生育が遅れたが、8月末には住民ら約20人がヒマワリの茎に巻き付いた雑草を取り除くなど世話を続けてきた」。

6月の畑
7月の畑
9月下旬には看板の枠だけ立っていた









2022年9月25日日曜日

安城にない無印良品にコオロギせんべい

 


 食糧危機を解決するタンパク資源として昆虫食が注目を集める中で、無印良品の「コオロギせんべい」が好調な売れ行きという。そこでどのような味か試食してみようと思ったが、残念ながら安城市内には無印良品の店舗がない。西友がキーテナントの商業施設「ザ・モール」には2階に無印良品が出店していた。しかし、2020年5月に西友が撤退、商業施設も全館閉店したことから安城市内には無印良品がなくなってしまった。そういう西三河の店舗空白地を埋めるかのように、刈谷市に無印良品が新たにオープンした。

 刈谷市の無印良品は、4月15日にバローをキーテナントに開業した「ルビットタウン刈谷」に出店した。売り場面積722坪とかなり規模の大きい店舗で、しかもイトーヨー堂系「エルシティ」をリニューアルして開業した商業施設の何と1階に店舗を構えている。同店の食品売り場に「コオロギせんべい」はあり、驚くことに隣には聞いたことがなかった「コオロギチョコ」も置いてあった。

ドラレコではまだ検索できなかったルビットタウン
1階に無印良品が広く売場展開

 コオロギせんべいは、1袋が55グラム入り税込190円。袋には「これからの地球のことを考えて、コオロギのパウダー入りのせんべいを作りました。エビのような香ばしい風味が特徴です」と記載されている。また、コオロギチョコは同じくコオロギパウダーを入れたチョコレートバーで、税込190円。いずれも食用パウダーを混ぜただけの加工食品のため、昆虫食自動販売機で販売しているコオロギを丸ごと揚げた商品より購入しやすい価格。味も若干苦味があるが、特にせんべいはエビせんと似た食感で食べやすい。

 3月1日付のビジネスインサイダーによると、無印良品のコオロギせんべいは2020年に発売、2021年12月に昆虫食第2弾としてコオロギチョコを発売した。いずれも徳島大学発のベンチャー企業、グラリスが開発・生産した食用コオロギパウダーを練り込んだ共同開発商品という。グラリスではコオロギパウダーを使って自社ブランドのクッキー、冷凍パン、レトルトカレーなども開発、ECサイトで販売している。

袋のQRコードを読むと出る解説




2022年9月21日水曜日

三河唯一の昆虫食自販機は美容院に


 イナゴやコオロギなど素揚げした昆虫食の自動販売機が増大しつつあるというが、まだ見たことのある人は少ないと思う。しかし、安城市にはこの昆虫自販機が三河地方で唯一置いてある。東明町のロードサイドにある美容室「イースタイル」の駐車場にあり、今年4月に設置されたという。目立つPOPを付けずに看板の横に置いてあり、ちょっと見には飲料水の自販機のようだが、よく見ると昆虫の名前の缶が並び、何とサソリ、タランチュラの名前まである。

 昆虫食自販機のプロデュースを行っている「セミたま」によると、低カロリー高タンパクの昆虫食を美容食として提案するため、イースタイルが美容業界で初めて設置した。また、来店客にインパクトのある自販機を楽しんでもらいたいとも考えているという。販売商品はサソリ、同2匹、同3種、タガメ、タランチュラ、虫焼き串、コオロギ、お試し価格のシルクワーム、シルクワーム、チョコバッタ、チョコシルクワーム、チョコスーパーワーム、ミルワーム、セミの幼虫、幼虫ミックス、バッタミックス、コオロギ&ワーム、スペシャルミックス、色々ミックス、タガメサイダー、お得パック、おたのしみ缶の22種類。

 最も高いのはサソリ3種の2700円で、タランチュラも2280円とかなり高額。最も安いのは、お楽しみ価格と表示してあるコオロギとシルクワームの600円。何が出るかわからない「おたのしみ缶」は1000円。セミたまによると危険な昆虫と考えられているサソリ、タランチュラが売れ行きはいいという。
全22種
サソリやタランチュラも並ぶ
透明な筒状容器に入った昆虫食パック

 昆虫食の味が全く予想できないため、今回高額商品をやめて、600円のコオロギ、シルクワームを試しに購入してみた。いずれも味のあまりないカリカリした食感であるが、個人的にはシルクワームの方が食べやすい気がした。イースタイルの自販機ではタガメ、タランチュラ、チョコシルクワーム、チョコスーパーワーム、バッタミックスが売れ切れとなっていたので、売れ筋商品となっているかもしれない。次はサソリやタランチュラをぜひ試してみたい。

食べやすいシルクワーム
コオロギ









 

2022年9月20日火曜日

神谷傳兵衛と刈谷の発展史


 日本のワイン王と呼ばれ、三河地方の産業発展にも貢献した神谷傳兵衛の功績を語り継ぐため「傳兵衛クラブ刈谷」は2年前に発足、9月4日から25日まで刈谷市中央図書館で同氏の「没後100年記念展示会」を開催している。また、これに合わせて9月18日、同図書館3階大会議室で公開講演会を開催した。講師は傳兵衛クラブ刈谷主宰の前刈谷市川口孝嗣副市長で、「神谷傳兵衛と刈谷の発展史」をテーマに午後2時から約2時間講演を行った。

 講演会で配布された資料によると、戦国時代の1533年に刈谷城が築かれ、刈谷のまちづくりが始まった。初代城主は徳川家康の生母於大の父に当たる水野忠政で、信元、忠重と続き、1600年に水野勝成が刈谷藩の初代藩主となる。以降、刈谷藩政は9家22人の藩主で継がれた。幕末には討幕の志士「天誅組」が刈谷から決起。その天誅組の精神は亀城小学校の校訓(自重、向上、協同)や校歌に伝えられてきた。また、維新直前の「刈谷城大手門外の変」で3家老が斬殺された。

 明治維新では、江戸家老の大野一族が刈谷に移り住み、藩内の士族返上をいち早く進めて、養蚕業や煉瓦製造を進めた。煉瓦製造から鉄道省の情報を得て、安城市との誘致合戦に勝って明治21年に東海道本線刈谷駅を設立した。東海道本線の駅は大府と岡崎の中間駅を造ろうという計画で、内定していた安城駅をひっくり返したという。続いて、東西の東海道本線に南北に交差させる三河鉄道を企て、神谷傳兵衛を大株主として取締役に巻き込んだ。大正7年に神谷傳兵衛が設立した東洋耐火煉瓦刈谷工場が駅前に稼働(現在のアピタの場所)、これが刈谷の産業発展の始点となった。工場長の大野一郎は刈谷藩家老だった大野定の弟の長男で、刈谷発展の祖として名誉市民第1号となった。

講演会場では傳兵衛伝の簡易製本版配布

 講演はどちらかというと刈谷の発展史の方に比重が置かれていた。最後の方では、10万坪の用地を求めていた豊田利三郎の要望に応え、豊田紡織試験工場が刈谷に建設され、ここから豊田7社の発展が始まったと説明。ただし、自動車生産に取り組んだ豊田自動織機製作所から100坪の用地を求められ、応えられずに挙母に決まったという。これが刈谷を越える豊田市の発展につながったと、前副市長らしく残念な気持ちを吐露していたのが印象的だった。




 

2022年9月16日金曜日

草地むらだった史跡安城陣屋跡


 江戸時代に幕府領となっていた安城村は、1698年(元禄11年)に旗本久永重利の領地となり、旗本久永領時代は明治維新まで続いたという。安城陣屋は久永領安城村の行政の中心となった場所だが、現在では奥に石造の祠や灯籠が奥に置かれているだけの草地で、市教育委員会の市指定史跡の案内板がなければ単なる草の生い茂った空き地としか見えない。史跡と表示してありながらあまりにも放置感が漂っていると書いても書きすぎではないような場所である。

 場所は安城町の安祥城址と安城古城址の真ん中あたりの住宅地にある高台の一角。実際の安城陣屋はもっと広かったようだが、隣に新しい建物が建っているのでよく分からない。また、初めは現在地より南の大地の突端にあり、城郭の立地条件に適合するような場所だったが、何らかの理由で村の中心地の近くに建て直されたという。

 地元西尾町内会が編纂した『安城 西尾の歴史』によると、陣屋跡にある2つの祠の右側は稲荷社で、左は山の神。稲荷社は陣屋に祀られていたものと伝えられているが、山の神は東海道新幹線の用地内から移されたという。同郷土史では、「東西二十八間、南北四十二間、周囲土塀あり、東南隅ニテ大手門、西中央ニ裏門、大手門西ニ長屋アリ、中ノ門北ニテ座敷及ビ事務所アリ」などと古い資料を引用、「安城陣屋には武士身分の常駐者が複数いたと推定される。また、奉公人を男女数人置いていた」と記述している。

右側が陣屋に祀られていたという稲荷社
裏から見ると高台に陣屋があったことが分かる

 市教育委員会によると、元禄11年に旗本久永信重は碧海郡安城村と共に、同郡米津村、加茂郡加納村、同郡三箇村の4354石を知行した。久永家は初代が石見国(島根県)から三河国額田郡に移り、松平清康につかえた。三代重勝が徳川家康に従って各地で戦い、弓頭となって5200石を得ているという(西尾の歴史から)。久永家の墓は安祥城址の大乗寺にある。

 

2022年9月13日火曜日

桜井町の桜井城址

 安城市桜井町の城山公園は、かつて桜井松平氏の居城・桜井城があった。1990年に徳川家康の関東移住に伴って、6代城主も武蔵国に移ったため廃城となった。南側に土塁、石積みがあり、入り口には冠木門、燈明台もあるが、土塁以外は後世に復元されたようだ。土塁の上には「櫻井城址」の石碑がたち、公園の西隣には6基の歴代城主の墓標が集められている。土塁や墓標を見ると、約70年と歴史は短いながら城址ならではの雰囲気が感じられる場所と言える。

 入り口ある安城市教育委員会の市指定史跡の案内板では、碧海大地が湿地帯へ舌状に突き出した天然の要害に築城された平城として次のように説明。「豪族小浦喜兵治が城を構えたといわれ、1472年(文明3)松平信光の安祥城進出により、松平氏の支配下に入ったと推定されています。1520年代松平親房(安祥城松平初代松平親忠の3男)の居城となり、ついで信定(2代松平長親の3男)が城を整えました。2代清定、3代家次、4代忠正、5代忠吉と継ぎ、1590年(天正18)6代家広が、徳川家康の関東移封に従い、武蔵野国松山城に移り、廃城となりました」。


城址の石碑

 1979年に地元小・中学校が発行した「桜井の歴史」によると、桜井松平の信定は妻には織田の娘を迎え、自分の娘は織田側の城である刈谷城や守山城に送り込み、安城・岡崎の松平に対立するほどの勢力になっていたという。松平清康の暗殺は桜井の松平信定がしくんだという説さえ出されている(岡崎市史別巻)。清康が殺されてからしばらく、信定が岡崎に入って松平家臣団を指示したともみられている。

 三河一向一揆でも、桜井松平の家次は吉良庄東条城主、八ツ面山城主らと共に一向宗側についた。一揆終了後、吉良は城を明け渡して詫びを入れたが許されず、その後に上方去り、八ツ面山城主も許されず河内に去った。しかし、桜井松平は家康の許しを得て桜井の本領を認められた。そして、三河全域を掌握した家康軍団の家老となった酒井忠次組に連なった。

城址の西隣に歴代城主の6基の墓標




2022年9月10日土曜日

碧南市内の名鉄三河線廃線駅


  旧三河鉄道の名鉄三河線は平成16年(2004年)3月末に碧南駅(大浜港駅から昭和29年に改称)と吉良吉田駅間が廃線となり、78年の歴史を閉じた。このうち、碧南市の碧南駅から玉津浦駅、棚尾駅、三河旭駅までの軌道敷地を活用して、鉄道をモチーフにした遊歩道「碧南レールパーク」が設けられている。残念ながら西尾市内の中畑、三河平坂、三河楠、寺津、西一色、三河一色、松木島の各駅はホームの跡もなくなっているが、碧南レールパークでは駅の面影を残したホームの形が再現されている。

 碧南レールパークは、大浜臨海線大浜口駅の位置した大浜口広場をエントランスにして平成30年3月にオープンした。さらに令和3年末からは大浜口広場から碧南駅まで遊歩道がつながった。総延長は140メートル加わり約2.4キロメートル。これに先立って碧南駅も駅舎を建て替え、平成2年9月からは駅舎と一体となった待合室も利用できるようになった。レールパークの用地は碧南市土地開発公社が名鉄から3億円で購入した。面積は33,104平方メートルで、旧三河旭駅周辺は一部定住促進のため売却したという。

碧南市内の廃線となった名鉄三河線の3駅
碧南駅まで伸びた遊歩道
右側に貨物の引き込み線がある旧玉津浦駅
旧三河旭駅の先は矢作川でその先は西尾市

 レールパークの大浜口広場には、三河鉄道、名鉄三河線の歴史を振り返るパネルや、車輪とレールなどのモニュメントがある。ここのパネルには旧大浜口駅とあるが、同駅は貨物専用の大浜臨港線の堀川に面した駅。掲示されている地図の通り本線の南西にあったはず(大浜港駅からは0.4キロメートル)で、レールパークでは支線が南東に伸びており、この点は意図がよく分からない。隣の旧玉津浦駅は海水浴場の名前がついた駅として知られ、ここにも玉津浦臨港線という貨物輸送の引き込み線があった。

 一番広い最後の三河旭広場には東西に長く伸び、地元小学生のアイデアを基に開発したオリジナル遊具や健康遊具などが設置されている。また、実際の軌道を使ったモニュメントも設置され、廃線となり行き止まりであると知らせている。





2022年9月7日水曜日

三河鉄道神谷駅(松木島駅)跡


 名鉄三河線は豊田市北部の猿投駅から刈谷駅を通って碧南駅まで伸びる、全長39.8kmの路線である。以前は碧南駅から蒲郡線と連絡する吉良吉田駅まで伸びていたが、平成16年4月に廃線となった。もともと同線は三河鉄道が営業していたが、昭和16年6月に名古屋鉄道に合併吸収された。吉良吉田駅の隣にあった廃線駅の松木島駅は、三河鉄道開業当初は「神谷駅」として鉄筋コンクリート造りの駅舎を構えていた。同駅は三河鉄道の大株主、社長として発展に尽力したワイン王として知られる神谷傳兵衛の生誕地に設置したもの。

 鉄筋コンクリート造りの駅舎があったプラットホーム北側は現在、立ち入り禁止の看板が立ち、草に覆われた空き地が広がっている。少し前まで残っていて、ブログなどで撮影・紹介されているプラットホームの跡も草に覆われているのか、今は見当たらない。ただし、吉良吉田方面へ少し歩いて行くと、レールが撤去された跡の盛り土が伸びており、レールの敷石と見られる石も転がっている。さらに道路を横切っている陸橋跡も残っている。

駅がありホームがあった場所は草むらに
吉良吉田駅方面に伸びる線路跡には敷石も
陸橋

 駅舎は廃線になる前の昭和53年に老朽化のために取り壊され、すでにプラットホームだけの簡素な駅となっていたという。また、駅名は「神谷」から昭和24年に所在地名の「松木島」に改称された。三河鉄道がなくなり、神谷傳兵衛の名前も地元の人々の記憶から消えてきたため、駅名改称に至ったかと思われる。立ち入り禁止の草むらが整備されれば、残念ながら松木島駅の名残は全くなくなってしまうだろう。

展示会「神谷傳兵衛と刈谷の発展史」の神谷駅模型




 

2022年9月5日月曜日

神谷傳兵衛と三河鉄道


 浅草の神谷バーの創業者で日本のワイン王と言われ、明治・大正時代に活躍した西尾市一色町出身の実業家の神谷傳兵衛。同氏の没後100年記念事業が刈谷市で行われ、神谷傳兵衛伝マンガ冊子を小・中学校に無償配布すると共に、刈谷市中央図書館2階で9月4日から25日まで記念展示会「神谷傳兵衛と刈谷の発展史」を開催している。刈谷市では三河鉄道の経営危機に社長して再建に尽力し、沿線に東洋耐火煉瓦工場を創業するなど、刈谷市発展の礎を築いた。

 後の名鉄三河線に変わる三河鉄道計画は、刈谷から碧南までの碧海軽便鉄道計画と挙母(こもろ)から知立までの知挙(ちきょ)軽便鉄道計画を合わせて、本格的な鉄道を敷こうというものだった。大正3年に刈谷駅と大浜港駅(碧南市)間で開業し、翌年に知立駅と刈谷駅間、その後挙母駅(豊田市)と知立駅間、大浜港駅と三河吉田駅間などが開業していった。大正5年には東京在住のまま大株主だった神谷傳兵衛が社長に就任、追加の株式発行などで資金を調達して経営危機を救った。

刈谷市中央図書館で展示会「神谷傳兵衛と刈谷の発展史」
神谷バーと牛久のシャトーカミヤ
神谷バーの電気ブラン

 神谷傳兵衛は生前に蒲郡まで三河鉄道の延伸を計画していた。大正15年、死後4年経って大浜港から生誕の地である松木島まで延伸できたことから、功績を讃えて駅名も「神谷駅」とした。神谷駅は、当時では珍しかった鉄筋コンクリート造りで、駅舎内には駅長室隣に貴賓室が設けられ、専用の入口から貴賓室まで赤いじゅうたんが敷かれていた。駅舎の設計は、現刈谷市郷土資料館などの設計を手掛けるなど西三河で活躍した大中肇が行った。

 三河鉄道は昭和11年には蒲郡駅まで延伸されたが、神谷駅は昭和24年に松木島駅に変更され、同53年に老朽化のため駅舎は撤去された。そして、平成16年には三河線の一部廃線が決まり、玉津浦駅(大浜港隣)と松木島駅間は撤去となった。「それは皮肉にも神谷傳兵衛が強く望んだ三河の発展が自動車産業を促進させ、神谷傳兵衛を顕彰する駅舎と線路をこの世から消してしまう結果となった」(神谷傳兵衛伝マンガ冊子)。


三河鉄道神谷駅の模型





 

 

ららぽーと安城のテナント187店舗を先行発表

  三井不動産は安城市大東町に開発中の商業施設名を「三井ショッピングパーク ららぽーと安城」に決定、来年4月に開業すると発表。同時に、全テナント約210店舗中187店舗を先行して明らかにした。敷地面積は3万1900坪で、地上4階建ての店舗棟(3階までが店舗)と3棟の地上6階建て立...